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「監督に泣いていると思われて…」松本匡史と篠塚和典が語る“地獄の伊東キャンプ”の真実…長嶋流育成術とは何か?「ミスターは俺の頭をめがけてほうってきた」
長嶋茂雄が1979年秋に行った「地獄の伊東キャンプ」の代表的成功例のひとりが当時3年目、25歳の松本匡史である。右打者の松本に左打ちを習得させてスイッチヒッターに変身させ、二塁手から外野手へコンバート。おかげで'82、'83年に2年連続盗塁王のタイトルを獲得し、「青い稲妻」と異名を取った松本自身が振り返る。
「伊東キャンプがなかったら、その後の私はあり得ません。あれだけ辛抱強く厳しい練習を続けられたのは、長嶋さんがずっと一緒になって教えてくださったからです」
伊東キャンプ18人のメンバーに入った時はまさかと思った。早大時代に7回以上経験した左肩の脱臼癖に苦しみ、巨人でも3回ほど脱臼で離脱。3年目の'79年に腰の骨を肩に移植する手術も受け、長嶋が俊足に惚れ込んで入団させた韋駄天が歩行すらままならない。俺も終わりかと諦めかけていた矢先、伊東に連れて行かれたのだ。

長嶋「だから、とにかくゴロを打ちなさい」
長嶋によるマンツーマンの練習は、早くもキャンプ初日の朝から始まった。
「起床時間の朝7時頃、宿舎の窓からグラウンドを見たら、長嶋さんが打撃ケージの前に立ってるんです。背番号90のユニフォームを着て。そんな時間から練習するなんて、前日には一言も言っていないのに」
打撃マシンから放たれる球に対し、「上から真っ直ぐにバットを振り下ろせ!」と長嶋は繰り返した。「ホームベースに球を叩きつけて高くバウンドさせるんだ!」と、松本に何度もこう言って聞かせた。
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