1998年、甲子園の主役は「平成の怪物」だった。公式戦無敗、ノーヒットノーランでの春夏連覇達成。だが、その輝きは後輩に大きな“影”を残していた。遠すぎる先輩の背中を追い、抗い、もがき続けた後輩たちが明かす、横浜高校「空白の時代」の真実。
松坂大輔を主役とする横浜高校の伝説は、'98年夏の甲子園決勝、京都成章戦でのノーヒットノーランで幕を閉じた。準々決勝のPL学園戦、準決勝の明徳義塾戦と劇的に勝ち上がっていく過程の物語は、これまで数々のメディアで語り尽くされてきた。
だが、直後の横浜に迫った記事は見当たらない。同校が次にスポットを浴びるのは、成瀬善久と涌井秀章がいた'03年。その間には、いわば空白の歴史が横たわっている。
「マジで初めてですよ。おれらの代を取り上げようなんて」
松本勉が苦笑交じりに呟く。唯一の2年生レギュラーとして春夏連覇を経験し、新チームでは主将に就いた。ただ、甲子園が閉幕した時点ですでに8月下旬。秋の神奈川県大会の初戦が2週間後に迫っていた。
「新チームとしての練習が全然できなかったので不安はありました。でも、ピッチャーの2人がいたのはデカかった」
松本と同じく2年生ながら甲子園でメンバー入りしていた袴塚健次と齋藤弘樹。左腕の袴塚が先発し、右腕の齋藤へとつなぐのが新生横浜の型だった。
松坂の背番号1を譲り受けた袴塚は言う。
「重かったですよ。そんな資格もないですし、やめてくれって言いたかった」
袴塚たちは1つ上の代に加わっていたから、別々に練習していた1・2年生のレベルがまるでわからない。県大会は「相手よりも身内を探りながら」の戦いとなった。
急造チームだったが、負ける気はしなかった。その理由を齋藤があけすけに語る。
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photograph by Hideki Sugiyama