今年10月22日に旗揚げ50周年を迎える全日本プロレス。生え抜き第1号は1972年ミュンヘン五輪レスリング・グレコローマン100kg以上級代表からスカウトされたジャンボ鶴田だが、新弟子としては'73年10月に入門した大仁田厚が第1号、大仁田より早く'73年3月に入門しながら家庭の事情で一度断念し、'74年3月に再入門した渕正信が第2号ということになる。
叩き上げの2人にとってジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、そして全日本とは? 2人の対談は、まだ専用の道場も合宿所もなく、マンションの一室に住みながらキックボクシングの山田ジムで練習していた時代の思い出からスタートした。
大仁田 最初はジャンボ鶴田さんと渕さんと俺、俺たちがデビューした年('74年)の夏に入ってきた薗田(一治=ハル薗田)選手と目白の賃貸マンションで合宿所生活をしてましたよね。'76年7月に砧の道場兼合宿所が出来る前。
渕 練習はきつかったけど、それを覚悟して入門したからね。「きついのは当たり前!」っていう気持ちだった。
大仁田 スクワットは、最初は1日に1000回ぐらいなんだけど、最後には3000回ぐらいやらされたから。止まると1からやり直し(苦笑)。
渕 俺たちは朝10時にはジムに着いて掃除するんだけど、先輩たちは来るのが遅い。1時間ぐらい待たされて、それからポツポツと来るわけだ。だから終わるのが3時過ぎになっちゃって。
大仁田 当時の練習は、ウェートトレーニングをやって、シュートをやって、受け身があって、最後に仕上げで足の運動。シュートなんか極められっぱなしだよ。鶴田さんがフルネルソンでギリギリと絞めあげてくるから、「この野郎、いつか……」と思ったけど、勝てない、勝てない。これはヨイショするわけじゃないけど、渕さんはアマレスの基礎があるから、あんまりやられなかった。俺は桜田(一男=ケンドー・ナガサキ)さんとか伊藤正男さんに極められっぱなしで「イテテ!」って。
「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています