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「Baseball needed him.」1995年の野茂英雄、道なき道を切り開いたヒーローの苦悩と誇り「これが言葉の壁なんです」《密着記者が綴る秘話》
近鉄バファローズの東京遠征に合わせ、野茂英雄とはよく六本木で酒を酌み交わした。
1994年8月。蒸し暑い夏の夜のことだった。他愛もない会話が続く中、肩の調子が思わしくなかった彼にはあえて野球の話は振らずにいた。
すると、野茂は突然切り出した。
「来年からメジャーで投げようと思っているんです」
耳を疑った。時代は今とは全く違う。メジャーでプレーしている日本人選手など誰一人としていない。
――そんなことができるのか?
彼は言った。
「できますよ。任意引退になれば」
4カ月後、彼は近鉄から任意引退選手になる了承を取り付けた。12月21日、都ホテル大阪でのことだった。
「任意引退」は所属球団との交渉において、統一契約書で選手に与えられていた唯一の権利だった。彼から近鉄にこの権利を求めたことは一度もない。要求したのは「複数年契約」のみ。だが当時、複数年契約は一般的ではなく、球団との交渉は紛糾を極めた。それが叶えられないなら、夢であるメジャーを目指したい。痺れを切らしたのは近鉄球団だった。
“我々の条件でサインできないなら任意引退だ”
こんな話が出たと聞く。球団は任意引退同意書にサインを求め、野茂は署名した。
発表は'95年1月9日。日本球界史上初となる新人からの4年連続最多勝、最多奪三振に輝いた日本最高投手は、突然に任意引退選手となった。そしてメジャー挑戦を表明。日本中が大騒ぎとなった。
ドジャースを選んだのは「オマリーさんがいたから」。
1月30日、野茂が海を渡った。最初に向かったのはシアトル。空港へはマリナーズのトレーナー、リック・グリフィンがピックアップトラックで迎えにきた。翌日、当時の本拠地キングドームのクラブハウスに案内され、ケン・グリフィーJr.のジャージーをもらった。野茂の表情はまるで子どもだった。シアトルには3日間滞在し、身体検査も行った。受けた提示は2年総額150万ドル(当時のレートで約1億4800万円)のメジャー契約。米国でも野茂が求められていることがわかった。
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