ある夜のことである。冬の早い陽がとっぷりと暮れた私の事務所にて、練習を終えた棋士四人はだらだらと時間をやり過ごしていた。五十を越えたベテランの私に、棋士になって間もない若者、残りのふたりは三十代半ばの中堅である。今年も終わりかあ、今日はどこの店に行こうかあ、などとはなしていると、誰かが「今年一番の名局といったらなんですかねえ」といった。空間が、きりっとなった。四人はしばし黙り込んだ。「せっかくだから藤井聡太君以外の将棋にしましょうか」と呟く者があって我々はさらに天井を見上げた。
しばらくして「あの、千葉さんと渡辺さんの……」と中堅棋士のどちらかがいった。棋士同士は、こうした謎めいた隠語のような一言で互いに確認しあうことが大好きだ。だから、それとなく顔を見合わせるような安心感が生まれ、場が和やかなものになった。
もちろん、一体感が生まれたのは、その一局の内容に、圧倒的な説得力があったからだ。
将棋指しは棋譜という名の品物のことに関してはゆずらないし、たとえ意見をのべるのを遠慮したとしても、顔や表情に、こだわりがでるものだ。だが、その時にはまったく全員があまりにも屈託がなくなるものだから、誰からともなく笑いだしたほどであった。
「あれはいい将棋でしたよね。観ていて興奮しました」と若者がいった。うんうんと皆がなる。
突然、中堅棋士が「あの将棋、結局どっちが勝ったんでしたっけ」とつづけた。「なんか難しかったんだよね……」。私に至っては、「どんな将棋だった?」という始末。
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photograph by Miho Nameki(illustration)