言葉を選ぶ数秒は、あの夏の出来事を反芻するための時間だったのかもしれない。
2020年の夏、藤井聡太が史上最年少二冠を達成した2つのタイトル戦について棋士たちに尋ねると、最初の言葉を発するまでに、必ず少しの間があった。
棋聖戦では渡辺明、王位戦では木村一基というトップ棋士2人を相手に、合わせて7勝1敗。しかも8戦とも、棋士の目から見ても驚異的かつ劇的な内容だった。
最初の衝撃は、新緑が美しい初夏に訪れた。6月8日、棋聖戦五番勝負第1局。
立会人を務めた深浦康市が振り返る。
「藤井さんはいつもと変わらない様子で、軽装でしたね。緊張しているようには見えませんでした」
世界中を翻弄していたコロナウイルスの影響で対局スケジュールが押され、藤井が史上最年少でのタイトル挑戦を決めたのは、開幕戦のわずか4日前だった。
藤井はスーツ姿で、足元はスニーカー。タイトル戦用の和服の新調は間に合わなかったのだ。初めて踏む大舞台だったが、三冠を保持する渡辺明を相手に序盤から溌溂と駒を運ぶ。
自玉はあっという間に包囲された
93手目、盤上に閃光が走った。
▲1三飛成――。
藤井は玉の次に大事な飛車を捨てて敵玉に迫ったのだ。
「いくらなんでも指しすぎだろう」
盤を挟んでいた渡辺も藤井の信じ難い踏み込みに疑念を抱いたが、心中の黒雲はすぐに消えた。自玉はあっという間に包囲されたのだ。盤上の景色がガラッと変わったことにショックを受けたが、このままでは終われない。渡辺は藤井玉に王手の連続で迫った。AIの無機質な評価値は藤井必勝を示していたが、深浦は「観ていてこれほどハラハラドキドキした将棋は珍しい。人間にはどう見ても際どかった」と証言する。
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