甲子園の風BACK NUMBER
「部員8人で甲子園? とバカにされて」山下智茂が名門・星稜を築きあげるまで「生徒にトイレへ呼び出されて、スパルタの仕返しかと覚悟したら…」
posted2026/09/09 11:03
今や高校野球名門校といえる星稜だが、そのはじまりは前途多難だった。伝説の名試合に挑むまでの苦労を、名将・山下智茂監督が回想する
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
Sankei Shimbun
1979年夏、箕島と「高校野球史上最高の試合」を戦うことになる星稜。その舞台への道のりは楽なものではなかった。当時の監督、山下智茂に話を聞いた。〈連載『日本野球1979』「箕島春夏連覇編」全4回の1回目〉
箕島高校(和歌山)野球部の栄光の歴史は尾藤公監督によって始まったと、1979(昭和54)年に春夏連覇を果たしたエース・石井毅は言った。同様に、星稜高校(石川)野球部の礎を築いたのが山下智茂だということに異論を唱える者はいない。
1945年2月、石川県生まれの山下は門前高校から駒澤大学に進んだものの、野球部のレギュラーは遠かった。大学卒業後、金沢市にある星稜の社会科教諭になり、野球部監督も任された。
部員8人で甲子園なんて…とバカにされて
しかし、野球部専用のグラウンドもなく、部員はわずか8人だけ。当時は公立高校の受験に失敗して星稜に入る生徒も多かった。
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「星稜には、裕福な家で育った頭のいい子が多いんですけど、校門に入る時にうつむいている生徒が多かった。自信がなかったんでしょうね。だから、胸を張れるようにしないといかんと思いました。それで、『3年で甲子園に行く』と全校生徒の前で宣言しました」
ところが、生徒たちからは山下が期待したような反応はなかった。
「部員8人でそんなことができるわけない……とバカにされましたよ」
野球という競技は9人が揃わなければ試合ができない。生徒たちの冷淡な反応も仕方がないところだろう。夢を語るにしても荒唐無稽すぎると思われたのかもしれない。

