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「死ぬのが恐しうて…」池田高校の名将が甲子園連覇のウラで“何度も見た”特攻の悪夢…『戦中派』著者が語る、蔦文也が抱えていた“生きづらさ”の正体
posted2026/09/03 11:01
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
text by

岡野誠Makoto Okano
photograph by
KYODO
公立高校ながら、甲子園に旋風を巻き起こし、3度の全国制覇を成し遂げた徳島・池田高校の蔦文也監督。栄光の裏で様々な意見が飛び交う彼は一体、何者なのか――。彼の遺族や関係者に丹念に取材を重ねた書籍『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)が反響を呼んでいる。今回、著者・田中仰と『戦中派 死の淵に立たされた青春とその後』(講談社現代新書)で第74回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した前田啓介との対談が実現。“戦中派”という立場が蔦の人生に及ぼした影響を考察した。【全3回の2回目/第3回に続く】
◆◆◆
1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。だが、日本の状況は悪化の一途を辿る。43年10月、兵力不足を補うため、20歳以上の学生を戦地に送り出す「学徒出陣」政策が取られた。
田中 蔦さんは軍隊生活について「自分は落ちこぼれだった」と振り返り、「死ぬのが恐しうて、飛行機乗りにはなりとうなかった」と語っています。戦後、「爆弾を積んで突っ込もうとする夢を今でも見る」とも言っている。
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前田 それほどの衝撃であり、体験だったんでしょうね。戦中派の方を取材している時、戦争体験が急に思い出されて、目の前で泣かれることもありました。
田中 ある種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)ですよね。ご次男によれば、蔦さんは出撃命令を2度下されたものの、いずれも飛行機の故障で生き延びられたそうです。
農地改革を経て衰退した家は…
45年8月15日、蔦は茨城で終戦を迎えた。戦後、連合国の機関であるGHQは日本の経済民主化の三大改革として「財閥解体」「農地改革」「労働改革」を推し進めた。大地主である蔦家はその損害を受ける側にいた。
田中 農地改革によって、蔦家は多くの土地を奪われてしまった。そのことに、やりきれない想いを抱えているように感じます。同じ境遇の方をご存知ですか。

