甲子園の風BACK NUMBER
「死ぬのが恐しうて…」池田高校の名将が甲子園連覇のウラで“何度も見た”特攻の悪夢…『戦中派』著者が語る、蔦文也が抱えていた“生きづらさ”の正体
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKYODO
posted2026/09/03 11:01
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
前田 私の親戚がそうです。戦後から何十年も経っているのに、昔の小作人が家にお米を持ってきてくれると「年貢米」と言っていました。
田中 なるほど……。
前田 「年貢米って呼ぶの!?」と驚きました。8年前、石川で(農家と関係ない)取材をしていたら、高齢の女性が何気なく「あの人はウチの小作人で」と口にしたんですよ。自分の土地だったのに、急に奪われて納得できなかったのでしょう。潜在意識が言葉に現れたように感じました。
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田中 今の時代では、家の土地が急に奪われるという事態は想像できません。
前田 農地改革を経て、衰退した家は再び土地を集めたがります。土地を持てば持つほど、固定資産税も掛かるし、相続税もかさむので、次の世代は困る。それでも、増やしたがるんですよね。土地に、自分たちの価値が紐づいている。
教師になった理由は“消極的”だった
田中 名家たる基準にもなっている、と。蔦さんは1950年に東急フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)に入団し、上京しました。しかし、1年でクビになり、徳島に戻った。同志社大で教員免許を取っていたので、51年に池田高校の教師、翌年に野球部の監督になった。理由は消極的です。教師に“でも”なろうか。教師に“しか”なれない。いわゆる「でもしか先生」でした。
前田 東京に残って仕事を始めてもいいのに、Uターンを選んだんですね。それは「家を守る」という意識が大きかったように思います。
田中 しかも、一人息子ですからね。
前田 戦後、地域の人たちが「名家」として接してくれたかというと、怪しいと思うんですね。戦前と全く異なる扱いに、忸怩たる思いを抱えていたかもしれません。
田中 ご次男に「没落した」というお話を聞いた時、なんとなくいろいろ失ったんだろうとは思ったのですが、実際には精神的な面も含め、相当深い傷を負っていたんですね。
