甲子園の風BACK NUMBER
「小さな町で、近所の子どもが集まったような野球部」箕島はなぜ70年代屈指の強豪校になったか「尾藤公さんが監督になってすべてが始まった」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byJIJI PRESS
posted2026/08/26 17:02
今に至るも史上唯一の公立高校による春夏連覇の立役者である箕島高の石井毅。その生い立ちはいかなるものだったのか
「友達が6人くらい集まったら、空き地や田んぼで2チームに分かれて野球ごっこをするくらいでした。人数が増えれば野球っぽくなりますけど、あくまで遊びの延長でしたね」
学校の体操着で大会に挑戦
そのうち、ごっこ遊びで飽き足らなくなった。
「軟式の少年野球チームが箕島にはなかった。僕たちが通う保田小学校の生徒を中心にチームをつくって大会に出ることにしました」
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しかし、ユニフォームはなく、学校の体操着での出場だった。
「体育の授業の時に着る、白いトレパン、トレシャツですね。それに背番号をつけて、帽子にマークを貼って。人数が足りないと近くの小学校に通う友達を誘って『バットを振るふりだけでええよ』という感じでした」
大会の時には選手の父親に監督を任せたが、基本的には子どもたちが楽しむ野球だった。
「指導を受けるということもなくて、『こんなふうに投げたら?』『こうやって打ったらボールがよく飛ぶぞ』とかみんなでワイワイ言い合いながらやっていましたね」
そんな時、高校野球で有名な監督が練習にやってきた。それが20代で日本一監督になった尾藤だった。
「センバツで優勝したあと、尾藤さんが一時期、監督から離れた時期でした。ふらっと顔を出して、ボールの捕り方や投げ方を教えてくれました。怖いとも優しそうとも感じませんでした。『箕島の尾藤監督や!』というだけ。
おそらく、本人にスカウトする気持ちなんかなかったと思いますよ。野球をしている子どもたちを見て、『ちょっと教えてやろうか』というくらいで。硬球を渡してくれて『これで遊んだらええぞ』と言ってくれました」
1974年、尾藤は箕島の監督に復帰。3年後に2度目のセンバツ優勝を果たし、その瞬間を石井は甲子園のアルプススタンドで見ることになる。
尾藤監督との出会いは運命だった?
運命的な出会いと思えるが、同じ地域に住む石井にとっては不思議でもなんでもなかった。

