海外サッカーPRESSBACK NUMBER
大統領まで「無能な指揮官」と名指しで…“韓国で猛批判”のホン・ミョンボ、なぜ日本では同情論?「アジア最高のリベロ」がJリーグに刻んだ“本当の足跡”
text by

戸塚啓Kei Totsuka
photograph byAFLO SPORT
posted2026/07/08 18:10
柏レイソルでキャプテンを務めた現役時代のホン・ミョンボ。確かな戦術眼と闘志でチームを牽引した
移籍に反対されても…洪明甫は日本でのプレーを選んだ
洪明甫がJリーグにやってきたのは1997年だった。アジア最高のリベロと称賛されていた男にとって、悲願の海外移籍だった。
1990年のイタリアW杯で国際舞台デビューを飾った洪は、1994年のアメリカW杯で2ゴールをマークした。国際舞台で活躍するたびにオファーが届いたものの、所属する浦項スティーラースの反応は冷淡だった。
「看板選手が出ていくなんてありえない」
ADVERTISEMENT
韓国Kリーグで優勝を飾り、MVPに選ばれた。ベストイレブンは4度受賞した。「国内でやるべきことはやり尽くした」と考えた洪は、「早く外国へ出て新しいスタートを切りたいので、ベルマーレからのオファーは何としても受け入れてほしい」とクラブに懇願した。
韓国代表でキャプテンを務めるような選手が、ライバル国の日本でプレーする。すでにいくつかの先例はあったものの、簡単な決断ではなかったはずだ。家族は「大丈夫なの」と不安を吐露した。移籍に反対する友人もいた。カミソリの入った手紙が届いたこともあった。
それでも、洪は日本へやってきた。
そして、Jリーグに確かな足跡を印す。
加入初年度の1997年は、ボランチが主戦場だった。長短のパスを繰り出し、鋭いミドルシュートも持つため、MFでもチームに貢献することはできる。ただ、本職のリベロではなかったことも含めて、環境への適応に時間を要した。
3バックの中央を任された1998年は、本来のパフォーマンスを披露していく。シーズン途中加入の1997年は「37」を背負ったが、この年はお馴染みの「20」を着けた。日本のサッカーと生活環境にも慣れ、アジア最高のリベロと呼ばれるにふさわしい存在感を放っていく。
来日3年目の1999年には、柏レイソルへ移籍した。親会社の撤退でベルマーレの予算規模が大幅縮小され、主力選手は他クラブへの移籍を余儀なくされたのだった。
レイソルでは不動のリベロとして、守備組織を束ねた。リーグ戦で前年の年間8位から3位へチームを押し上げ、クラブ初の3大タイトル獲得となるナビスコカップ(現ルヴァンカップ)制覇に貢献した。リーグ戦でもカップ戦でも、勝利につながる貴重なゴールを決めている。彼の勝負強さが、チームの支えとなった。
西野朗監督が指揮した当時のレイソルには、GK南雄太、MF平山智規、MF明神智和、MF大野敏隆、FW北嶋秀朗といった将来有望な若手選手が揃っていた。横浜フリューゲルスから移籍してきたDF薩川了洋や、長くチームを支えてきたFW加藤望やMF下平隆宏のような経験者もいた。若手、中堅、ベテランがバランス良く揃ったチームで、洪は加入2年目の2000年にキャプテンに指名される。西野監督の強い要請を受けて、チームを引っ張っていく責任を背負う覚悟を固めた。


