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「高校まで全く無名だった」森保一監督…そのサッカー人生で1番のナゾ「なぜ地元の強豪・国見高に行かなかった?」親友が明かした“受験の真相”

posted2026/06/23 11:02

 
「高校まで全く無名だった」森保一監督…そのサッカー人生で1番のナゾ「なぜ地元の強豪・国見高に行かなかった?」親友が明かした“受験の真相”<Number Web> photograph by AFLO

1993年3月の日本代表合宿で。森保は当時24歳。この前年に初めて日本代表入りするまで、ほぼ“無名”の存在だった

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木崎伸也

木崎伸也Shinya Kizaki

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森保一監督というと、マジメで優しそう――そんなイメージがある。だが、それだけでは世界で勝てない。3刷重版と話題の新刊『逆転監督 森保一』(著:木崎伸也)は、2年半以上の徹底取材と複数回の本人インタビューから、森保監督の“したたかな勝負師”としての顔に迫った一冊だ。そのなかから、“森保監督はなぜ地元強豪校に行かなかったのか?”のエピソードを紹介する。【全3回の2回目/第1回第3回も公開中】

「なぜ国見高に進学しなかった?」

 森保一のサッカー人生にはひとつ大きな謎がある。

「なぜ国見高校に進学しなかったのか?」という謎だ。

 森保は、1984年に深堀中を卒業している。

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 当時、長崎県の高校サッカーといえば、小嶺忠敏監督率いる島原商業高校が県内では別格だった。1977年にインターハイで長崎県勢として初優勝し、1981年と1983年には国体で優勝。小嶺監督の指導力と選手集めの手腕によって全国区のチームになった。

 森保が中3のとき、その名将が今度は国見高校に転任するというニュースが飛び込んできた。もし国見高校に進学すれば、小嶺新体制の一期生になれる。県内の有力選手はこぞって国見への進学を希望した。

「国見高の受験に行く約束をしていた」

 森保も例外ではなかった。受験票を手に入れ、隣町の親友・岩本文昭とバスで2時間かけて受験会場へ行く約束までしていたのだ。

 岩本は振り返る。

「僕自身は小嶺先生から声をかけてもらって、『国見に来ないか』と誘って頂きました。森保には声はかかりませんでしたが、小嶺先生の構想に間違いなく入っていたと思います。森保とは異なる中学校に通いながらも、試合で切磋琢磨してきた仲だったので国見で一緒にやりたかった。森保もそう思ってくれていました」

 ところが受験当日、待ち合わせしていたバスに森保が姿を見せなかったのである。先に行ったのかなと思ったが、現地に到着しても見当たらない。結局、森保は試験会場に現れなかった。

国見に行った親友は「全国で活躍」

 森保が進学先に選んだのは長崎日大高校だった。深堀中サッカー部でコーチをしていた三菱重工の選手が同校出身で、推薦してくれたのがきっかけだ。特待生という破格の扱いだった。

【次ページ】 「父親が受験させてくれなかった」説

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