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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「17歳2カ月、じつはNPB最年少本塁打」金田正一は400勝以外の記録もスゴい…“デビュー前報道で敵意”長嶋茂雄でも王貞治でもない天敵とは
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2025/01/09 17:10
1963年、300勝達成時の金田正一。10代から弱小球団だった国鉄スワローズのエースとして君臨した
1950年はプロ野球がセ・パ2リーグに分立した年だが、国鉄はこの年にセントラル・リーグに加入。大学や社会人の選手も獲得したが、国鉄(鉄道管理局)野球部の選手も試合に出るなど、選手層の薄さは否めなかった。ドラフト制度のない時代、大卒、高卒の有名選手は他球団との争奪戦で負けることも多く、高校在学中の金田にアプローチしたのだ。
17歳の金田の身長はすでに184cm、当時のプロ野球選手の平均身長が170cm少しだから、ずば抜けた長身だった。左腕から投げ下ろす速球には威力があった。
14年連続20勝という空前の記録も
金田は1950年のペナントレースが始まってから国鉄スワローズに入団。8月23日、松山市営球場で行われた広島戦に3番手として初登板するが、負け投手。以後、先発と救援で投げたが1カ月以上も勝ち星がなく0勝4敗となったが、10月1日、甲子園球場で行われた大洋戦で9回を完投してプロ9試合目で初勝利を挙げた。
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ここから金田は頭角を現し、最終的には8勝12敗、164.2回、防御率3.93の成績を挙げた。この年の規定投球回数は180回と設定されたので規定投球回には達せず。なお金田は打者としても非凡で、投手として最多の通算38本塁打を打っているが、この年10月6日の西日本戦で緒方俊明からプロ第1号ホームランを打った。このとき17歳2カ月。今に至るもこれがNPBの本塁打の最年少記録となっている。2カ月で金田が8勝を挙げたこともあり、国鉄は最下位の8位になることをまぬかれ、7位となった。
翌年から、金田正一は絶対的なエースとなる。1951年は18歳で22勝21敗、リーグ1位の350回を投げ最多の233奪三振、防御率2.83(7位)を記録する。また9月5日の阪神戦では史上最年少の18歳1カ月でノーヒットノーランを達成(1957年8月21日の中日戦では完全試合を達成)。金田はこの1951年から1964年まで「14年連続20勝」という空前の記録を達成する。
この間、最多勝を2回、1958年には31勝を挙げて「セ・リーグ最後の30勝投手」となり、最多奪三振を10回、防御率1位を2回獲得している。
2学年下、長嶋に敵意むき出しとなった“ある報道”
一方でこの間、国鉄スワローズは一度も優勝していない。金田は好投しても援護に恵まれず負け投手になることも多かったが、セ・リーグの多くの打者と名勝負を繰り広げた。とりわけ巨人の長嶋茂雄との対戦は、伝説のようになっている。
1958年、立教大学から長嶋茂雄が鳴り物入りで巨人に入団。長嶋は金田より2学年下。高校中退の金田は、東京六大学のスーパーエリートの長嶋に猛烈な敵愾心を抱いた。