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「もう一生オリンピックに出られないんじゃないか」パリ五輪フェンシング銅メダル・宮脇花綸が明かす2度目の五輪落選「初めて引退を考えた」《NumberTV》

posted2024/10/24 11:04

 
「もう一生オリンピックに出られないんじゃないか」パリ五輪フェンシング銅メダル・宮脇花綸が明かす2度目の五輪落選「初めて引退を考えた」《NumberTV》<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

27歳にして初めて立ったパリ五輪、フェンシング女子フルーレ団体で銅メダルを獲得した宮脇花綸が自らの挫折地点について明かした

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph by

Yuki Suenaga

 パリ五輪で日本フェンシングの歴史を動かした宮脇花綸(27歳)。 快挙の裏には、失意に沈んだ日々との苦闘があった。「Sports Graphic Number×Lemino」制作のドキュメンタリー番組NumberTVから特別記事を掲載する。<全2回の後編/前編から読む>
【初出:発売中のNumber1107号[挫折地点を語る]宮脇花綸「私はフェンシングが好きだけど」】

2度目の五輪落選で初めて引退を考えた

 気持ちを取り戻した宮脇は、その後初めて国際大会のグランプリで表彰台に上がるなど復調するが、東京五輪でもまた代表には届かなかった。フェンシングは世界ランキングが代表選考の大きな決め手となる。宮脇は選考期間終了が近づくにつれ調子を落とし、成績が下降していった。

「最後の最後に精神的なもろさが出てしまいました。落選が決まって、もう一生オリンピックには出られないんじゃないかと思って、そのとき初めて引退を考えました。でも、人生でうれしいも悔しいも感情がいちばん揺さぶられるのはフェンシングなんだなとあらためて感じて、やっぱりパリを目指そうと。そこにはリオのときの経験が生きていたと思います。自分がよくない心理状態にあるときはネガティブになりがちで、物事を客観的にみることができないとあのときに学んだので」

 即断せず、時間をかけて気持ちを切り替えると、代表選手のサポートに努めた。

「ふつうなら代表選手たちは五輪に向けて事前合宿などを組んで、海外の選手と一緒に練習するんですけれど、あのときはコロナ禍で一切できなかったんです。女子初のメダルを獲ってほしい、そのためにも自分が彼女たちの最強のスパーリングパートナーでいなければと思って、代表メンバーに勝つつもりで練習をしていました」

 チームへの思いは自分にもつながった。

「そこで質の高い練習ができて、パリへ向けてもよいスタートが切れたのかなと」

 東京五輪後は所属先を失ったが、テレビのクイズ番組に応募し300万円を獲得。遠征費用を手にし、出演がきっかけで新たなスポンサーも得た。自力で危機を乗り越えるとパリではついに念願の五輪代表に選ばれ、その勢いのままメダルも手にした。

表彰式で心に浮かんだ「金メダル」

「オリンピックという素晴らしい舞台に出られたことも、メダルを獲れたこともうれしかったです。反面、次に向けていい宿題をもらえました。もしかしたら個人戦でもメダルを獲れるかな、と思っていたのです が、チャンピオンになるには意識が足りてなかったんだなと実感したんです。リオやその前のロンドンも現地には行っていたんですけど、見ているだけでは感じられない、なんでしょう、オリンピックの本質を知っ たというか......」

 表彰式で心に浮かんだのは「次は金メダル」という決意だった。

「振り返れば、本当にすべての経験が今の私を作ってるんだなと思います。辛いこともありました。でも、リオの経験があったからこそ、東京で代表に入れなかったときは対処することができましたし、アスリートとしての考えも固まったのかなと」

 挫折を味わい、乗り越えるたびに糧を得た。自立を志し、道を切り拓いてきた。その輝きとともに、目を向けるのは4年後のロサンゼルス五輪での栄冠だ。

<前編から続く>

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