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「フェンシングは私を好きではないな」パリ五輪銅メダル・宮脇花綸が語る“失意の記憶”「もう普通には戻れないんじゃないかと…」《NumberTV》

posted2024/10/24 11:03

 
「フェンシングは私を好きではないな」パリ五輪銅メダル・宮脇花綸が語る“失意の記憶”「もう普通には戻れないんじゃないかと…」《NumberTV》<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

27歳にして初めて立ったパリ五輪、フェンシング女子フルーレ団体で銅メダルを獲得した宮脇花綸が自らの挫折地点について明かした

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph by

Yuki Suenaga

 パリ五輪で日本フェンシングの歴史を動かした宮脇花綸(27歳)。 快挙の裏には、失意に沈んだ日々との苦闘があった。「Sports Graphic Number×Lemino」制作のドキュメンタリー番組NumberTVから特別記事を掲載する。<全2回の前編/後編へ>
【初出:発売中のNumber1107号[挫折地点を語る]宮脇花綸「私はフェンシングが好きだけど」】

27歳で初めて出場した五輪で銅メダル

 2024年8月1日、パリ。フェンシング女子フルーレ団体3位決定戦でカナダを破り、フェンシングにおける日本女子初の五輪メダルを獲得したチームの中に宮脇花綸はいた。挫折を乗り越え、27歳にして初めて立った大舞台での銅メダルに、ひときわ笑顔が弾けた。

 宮脇は'14年のユース五輪で個人銀、団体金を獲得するなど、10代の頃から好成績を残し、メディアでも脚光を浴びてきた。だがその後の歩みは順風満帆ではなかった。

 最初の大きな挫折は'16年リオデジャネイロ五輪で代表入りを逃したこと。

「それまではけっこう順調に行っていたんですけれど、実力よりも周りの期待の方が勝っている状態で。五輪に出られなくて、心身の状態を崩してしまいました」

 失意に沈み考えを巡らしているうちに、ある思いが浮かんだ。

「私はフェンシングが好きだけど、フェンシングは私を好きではないな」

 そして自身の至らなさに気づいたと言う。

「自分はプロフェッショナルじゃないなって。自分で考えて練習するのではなく、親に『この練習をしなさい、このコーチに指導を受けなさい』と決められてやっている感じでしたし、実家で暮らしていたから自己管理ができているわけでもなかった。代表になれなかったあと体重も10kgくらい増えてしまって、そういう自分も嫌でした」

きっかけを求め、単身イタリアへ

 自分はフェンシングに対して真摯ではない。自分で自分を管理して、真のアスリートとして取り組みたい。そう考えた宮脇はきっかけを求めてイタリアのベネチアへ単身渡った。そこでの日々が転機となった。

「ベネチアンガラス・アーティストの土田康彦さんという方がいて、娘さんがフェンシングをしていらしたこともあり、その方のもとに居候させてもらって練習に通いました。見るからに私がぼろぼろだったので、 土田さんは父のように接してくれて、一緒にご飯を食べたり、悩みを聞いたりしてくれました。私はもう終わりだとか、もう普通には戻れないんじゃないかとパニックのような状態だったんですけど、『僕もそういう経験あるよ』と言ってもらって。そのときに初めて、いろいろな人がこういう経験をしていて、でもそこから時間をかけて立ち直っているんだと知って心が軽くなりました。藁にもすがるじゃないですけれど、 それが希望になって、絶対いい選手になって復帰するんだって思いました」

<後編に続く>

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