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マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
偏差値70“青森No.1進学校”で2度の甲子園出場、甲子園準Vの八戸学院光星・黄金世代も撃破…今夏勇退「八戸高の名伯楽」とは何者だったのか?
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph by八戸高校公式野球部OB会HPより
posted2024/09/14 06:02
今夏で合計37年務めた八戸高野球部の監督を勇退した品田郁夫監督。青森No.1の超進学校を率いて数々の奇跡を起こせた理由は何だったのだろうか?
その後、ずいぶんご無沙汰の時期が続き、私がこういう仕事に就いて、再びお付き合いが始まった時には、大学を卒業してからかれこれ20年以上も経っていた。品田さんはもうすっかり八戸高のベテラン監督として、青森県の指導者の方たちからも一目置かれる存在になっておられた。
「八高の野球部の同期に、上條ってヤツがいてさあ」
品田監督が、以前、こんな話をされていた。
「『教師になるんだ!』って、大学でもものすごく勉強して、人間的にも立派なヤツで、博識で志も高くて、そういう人間を見ていたから、教師っていうのは上條みたいなヤツだからやれる仕事で、オレみたいなハンパな人間がなっちゃいけないんだって。そう考えてしまったんだな」
「教員になって監督をすればよかったのでは?」
そんな素朴な疑問に、品田監督の回答はこうだった。
46年前から八戸高の野球部監督に
品田監督が大学を卒業した頃の1980年前後は、比較的、教員になりやすい時代だった。企業への就職が叶わなかった学生たちが、「教員にでもなるか」「教員しか就職口がない」。「でもしか先生」なんて言葉が生まれたのも、この時代であった。
実家のお寺を手伝いながら、品田さんの八戸高監督生活が始まった。
1978年4月、品田監督、25歳になる年だった。
<次回へつづく>