「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
スタメン捕手が靭帯断裂、シーズン中に消えたエース…大矢明彦がいま明かす“1978年、初優勝の真実”「ヤクルトでやってきてよかった…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/11/15 11:03
「花の昭和22年組」と呼ばれ、ヤクルト初優勝の原動力となった大矢明彦と若松勉。悲願をかなえた夜、若松は人目もはばからず号泣した
「……あのときは、バランスだったんです。軸足で立って体重が乗ったときにバランスよく投げることができるかどうか。それでボールの勢いだとか、コントロールが決まってくるんです。あのときの松岡は指先にかかったボールが少なかった。ボールにバラつきがありました。だから、監督としても試合で使えなかったんじゃないですかね」
この連載でも述べたように、「空白の26日」の間、広岡はマンツーマンで松岡に「軸足で立て」と指導し、シャドーピッチングを徹底させている。そして、7月2日、満を持して松岡はマウンドに上がった。もちろん、女房役は大矢が務めた。
8月に抱いた予感「優勝もあり得るんじゃないか?」
広岡との「空白の26日」を経た松岡の印象について、大矢が振り返る。
「バランスについては改善されていました。マウンドさばきと言えばいいのかな、マウンド上でおどおどすることもなかったし、自信を持ってボールを投げられるようになったと思いますね」
大矢の言葉にあるように、復活登板となった7月2日の中日ドラゴンズ戦で、松岡は127球を投げて見事な完投勝利を挙げている。この試合では、大矢も4打数3安打と活躍。バットでも松岡をサポートした。
8月に入るとヤクルトと巨人の首位争いは、さらに白熱する。しかし、松岡の奮闘はあったものの、少しずつヤクルトは低迷し、首位巨人とのゲーム差は4.5まで広がった。守備の要である大矢は、この頃のチームのムードをどのようにとらえていたのか?
「前年に2位になって、“今年はやれるんじゃないのか?”という思いで開幕を迎えました。で、オールスター過ぎには、“うまく戦っていけば優勝もあり得るんじゃないか?”という思いに変わっていきました。確かに8月にはジャイアンツが首位になったし、カープも追い上げてきたけど、それは強くて当たり前なチームが、普通に強くなってきただけなので、特に焦ることもなく、“自分たちが頑張ればいい。これは最後まで頑張るしかないな”という感じでしたよ」
この頃、大矢をはじめとするヤクルトナインに元気を与えた存在がいる。それが、神宮球場に押し掛けたファンの存在だった。