「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
スタメン捕手が靭帯断裂、シーズン中に消えたエース…大矢明彦がいま明かす“1978年、初優勝の真実”「ヤクルトでやってきてよかった…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/11/15 11:03
「花の昭和22年組」と呼ばれ、ヤクルト初優勝の原動力となった大矢明彦と若松勉。悲願をかなえた夜、若松は人目もはばからず号泣した
「松岡の場合は、ボールをキャッチするいわゆるポケットと呼ばれる部分にもう一枚、別の革を当てて、二枚重ねにしていました。その方がいい音がするんです。そして、安田の場合はノーサインでしたから、どんなボールがきてもキャッチできるようにかなり大きめのミットを使っていました」
当初、「安田専用ミット」は日本にはないものだったという。
「ユマに行ったときに見つけたんですけど、当時、メジャーにはフィル・ニークロというナックルボーラーがいましたよね。確か、ウィルソンというメーカーだったと思うけど、ニークロのナックルを受けていたキャッチャーが使っていたのが、ファーストミットみたいな大きめのグラブだったんです。最初の頃はそれを使っていたけど、それだと少し大きすぎるのでもう一回り小さいタイプのものを作ってもらって使っていました」
大矢明彦が回想する「松岡弘、空白の26日間」
1978年シーズン、ヤクルトは開幕3連勝と幸先のいいスタートを切ったものの、投打の歯車がかみ合わず4月は4位にとどまった。しかし、5月には引き分けを挟んで7連勝で3位に浮上。着々と上位進出を目論んでいた。そして、6月に突入する。すると、ここから突然エースである松岡がマウンドから姿を消すのである。本連載の松岡弘編で詳述したように、6月6日から7月1日まで、松岡は「空白の26日間」を過ごすことになる。この件について、松岡はこんな言葉を残している。
「身体はピンピンだよ。肩も、ひじもどこも痛くない。それなのに、まったく投げさせてもらえない。二軍に落とされるわけでもなく、ずっと一軍にいて遠征にも同行します。試合中にはブルペンでピッチングもしました。それでも、試合で使ってくれない。広岡さんからも、ピッチングコーチの堀内(庄)さんからも何も説明はない。“監督は、何でこんな仕打ちをするんだろう?”って、プライドが踏みにじられた気分でした」
この一件について、女房役である大矢は、当時どのようにとらえていたのか? 質問を投げかけると、その口調が重くなる。
「どうして松岡が投げなかったのか、その理由は知っていますが、申し訳ないけどこれは教えられません」
なおも角度を変えて質問を続けると、ゆっくりと大矢が口を開いた。