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甲子園の風BACK NUMBER
“ダルビッシュと互角に投げ合った”という看板が……甲子園史上に残る投手戦を演じたサウスポーの苦悩「主将になって血尿」「3年夏は中継ゲスト」
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph byJIJI PRESS
posted2023/08/08 11:03
2003年夏の甲子園3回戦、ダルビッシュ有を擁する東北高校にサヨナラ負けを喫した平安高校。2年生エース服部(写真)は大粒の涙を流して聖地を後にした
3年時はセンバツ出場も果たせず、夏は府大会準決勝で宿敵・京都外大西に3-4で敗れた。服部は126球を投げ、被安打3、9奪三振に抑えるも味方のエラーも絡んで力尽きた。
「同世代の奴らは、僕が投げれば抑えるやろうっていう雰囲気になるんです。だから僕も抑えなアカンって気持ちになる。ただ、僕らのチームになってからは全然勝てなかったですね」
甲子園を逃した夏。服部は夏の甲子園の開会式に放送局のゲストとして招待された。自分が立つはずだった大舞台をスタンドから眺めた。そこにはもちろん、あの時投げ合ったダルビッシュの姿もあった。
社会人では“クビ”も経験
卒業後は日本大学に進学し、1年春からリーグ戦で登板して4年秋までフル回転した。4年秋は中継ぎとなり、通算で9勝を挙げた。
「注目されるたびに結果を出さないといけないとは思っていました。でも、自分は球が速い方でもないし、三振は取れる方だったけれどこれという特徴がある訳でもない。だから社会人に進んでも、何で勝負していくべきかっていう悩みはありましたね」
日立製作所では2年で現役を引退した。「ひと言で言うと“クビ”ですね」と本人は苦笑いする。当時の日立は毎年10人前後の新人選手が入社しており、つまり、10人ほどの現役の選手が“戦力外通告”を受けることになる。期待されながらも結果を残せていなかった服部は、薄々と“予感”めいたものは感じていた。
会社に残る選択肢もあったが、家族のいる京都に戻りたいという思いもあって、日立製作所を退職。地元の中学野球チームの指導をしながら、母校でも不定期に投手コーチも務めた。生活のために運送業の仕事もしつつ、子どもに野球を教えることに生きがいを感じるようになり、数年前から本格的に高校で指導できないか模索していた。
滝川二の監督になったのは、自身が理事長宛てに書いた手紙が始まりだった。
「監督になりたい、というわけではなく、指導のお手伝いをしたいと自分の経歴も書いて送りました。そうしたら連絡をいただき、理事長さんにお会いしました。そこから話が進んで監督をすることになったんです」