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猪木vsアリから47年…プロレス最強幻想はいかにして崩壊したのか? “セメント最強の男”の敗北に見る教訓「時計の針が止まったままだった」
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph byGetty Images
posted2023/07/22 17:02
1976年6月26日、アントニオ猪木とモハメド・アリによる異種格闘技戦。当時は「世紀の凡戦」と酷評されたが、現在ではMMAの源流として再評価されている
あるプロレスラーの“セメント最強神話”の崩壊
MMAの歴史は、この異種格闘技戦をスタート地点に語られることが多い。MMAが競技として認知されるにつれて、当初は酷評された猪木vs.アリの試合内容も再評価されることになったのだ。時代によって、これだけ評価が割れる試合も珍しい。
とはいえ、異種格闘技戦とMMAは「似て非なるもの」と断言できる。前者は整合性のない競技同士を無理やり闘わせるものである一方で、MMAは統一ルールのある競技として成立している。そこが決定的に違うのだ。著しく整合性が欠けるステージで闘おうとするのだから、「異種格闘技戦に名勝負なし」という声が挙がるのも当然だろう。猪木vs.アリも、事前に詳細なルールが公になることはなかった。
その後、猪木が切り開いた異種格闘技路線に乗っかるレスラーは何名もいた。「プロレスは所詮ショー」と見なす世間の色眼鏡を払拭するためには、「プロレスこそ最強」とアピールできる異種格闘技戦がうってつけのカンフル剤だったからだ。その流れの中で、本業(キックボクシング)の成績はいまひとつながら、プロレスラーと闘うと活き活きとしていたドン・中矢・ニールセンのように「異種格闘技戦で光るファイター」も現れた。
舞台が異種格闘技戦ではなく、MMAに変わってもプロレスラーは挑戦し続けた。プロレスがショービジネスとして確立されているアメリカとは違い、日本のプロレスは力道山時代から「真剣に闘えばプロレスラーは強い」という最強幻想を身にまといながら歴史を積み重ねてきた経緯がある。
そもそも、昭和のプロレスファンはレスラーの武勇伝が大好きだ。オールドファンなら、「どこそこのレスラーが複数を相手に大立ち回りを演じた」「目玉をくり抜いた」といった話を耳にしたことがあるだろう。例えば、網走刑務所の職員の息子として生を受け、大相撲からプロレスに転向したケンドー・ナガサキ(桜田一男)。188cm、120kgの恵まれた体格で「ケンカ最強」と謳われ、リング内外での逸話は枚挙にいとまがない。
しかし1995年9月26日に修斗の大会で実現したバーリトゥード(のちのMMA)では、『UFC 1』にも出場したジーン・フレージャーにわずか36秒でKO負け。「セメントなら、ナガサキが最強」という神話を自ら崩壊させてしまった。