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[強豪国への道]クロアチアの背中は近づいたか
posted2023/01/28 09:03
text by
豊福晋Shin Toyofuku
photograph by
Atsushi Tokumaru
1998年の初夏、W杯を見るためにフランスへ飛んだ。
日本にとって初となるW杯でのグループリーグ突破は簡単じゃない。それでも、Jリーグのスターたちはいい勝負をしてくれるんじゃないか――。はじめてのエール・フランスは淡い希望を乗せて世界の舞台へと連れていってくれた。しかし、かの地で目にした現実は3戦全敗だった。はじめて学んだ、世界だった。
ボルドーでクロアチアの試合を見た。シュケルにボバンにプロシネツキ。華やかな選手たちの姿に心が躍った。クロアチアの人口は450万人程度だったけれど、代表選手の多くが西側の有名クラブでプレーしていた。エースのシュケルはレアル・マドリーで、魔術師ボバンはミランの10番だ。誰よりも足が速かったヤルニも、陰の名手アサノビッチやビリッチも国の外にいた。プロシネツキはすでに地元に戻っていたが、数年前までバルサとマドリーでプレーしていた。
その分野が最も発展している場所――サッカーにおいては今も昔も西欧だ――に身を置くことの大事さを、彼らの背中を見て知った。この大会でクロアチアは3位にたどり着いている。行進するチェックのユニフォームが、フランスの街並みに溶け込んでいた。
一方の日本はといえば、当時は欧州でプレーしている選手はひとりもいなかった。当然、「欧州組」や「海外組」という言葉すらない。時代が変わり始めたのは、大会後に中田英寿がペルージャに渡ってから。衝撃は大きく、欧州のスタジアムを歩くとどの国でもナカータと呼ばれたものだ。