酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
甲子園優勝ドラ1左腕→新人王のち27歳戦力外→4年後ヤクルト入団も再び… 正田樹40歳は今、何を?「中途半端でやめるわけには」
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKou Hiroo
posted2022/10/02 17:01
11月で41歳となる正田樹。かつての甲子園優勝投手は今、どうしている?
「中学時代は部活の軟式野球で内野手兼任の投手でした。目立つ存在ではなかったのですが、背が急に伸びて、高校に入ったときは183cmありました」
1999年夏、正田は2回戦の仙台育英戦で2年生の一場靖弘(のち明治大を経て楽天、ヤクルト)の救援を仰いだが、1回戦の比叡山戦、3回戦の静岡戦、準々決勝の桐蔭学園戦、準決勝の樟南線、決勝の岡山理大附戦の5試合を1人で投げぬき、決勝で1失点の好投を見せるなど圧倒的な投球を見せた。
「2年の秋からメインで投げるようになりましたが、三振が多いタイプでもないし、球種はまっすぐとカーブ、スライダーしかなかったのですが、何とかコンビネーションで打たせて取るタイプだったと思います。でも調子が良くて勝ち進むことができました」
ドラフト1巡目サウスポーが輝いたのは3年目だった
1999年のドラフトは左腕投手が注目された。国学院久我山の河内貴哉(広島1巡目)、東芝の高橋尚成(巨人1巡目)とともに、桐生一高の正田もその1人として日本ハムから1巡目で指名された。当時の本拠地は、東京ドーム。今、この時代を知るNPBの現役選手はいない。
1年目は一軍では5試合に登板、2年目は1試合に登板したのみ。当時の課題は制球力、1軍では2年間6試合で8回を投げて7奪三振だが9与四球。二軍でも1年目は4試合11.2回で8奪三振15与四球、2年目は9試合28回で16奪三振12与四球だった。
しかし3年目の2002年に正田は一軍で23試合に先発し、9勝11敗156.2回を投げて防御率3.45で新人王を獲得した。奪三振90に対して与四球は37だった。
「この年は春のキャンプから調子が良くて、シーズンを通して思うパフォーマンスができたと思います」
なぜ20代前半にして成績が下落してしまったのか
しかし正田は翌年からまた成績が下落する。2003年から2005年まで、3年連続で奪三振数より与四球数が多かった。報道はされていないが何らかの怪我・故障があったのか? と正田に聞いた。すると本人は当時について、こう打ち明けてくれた。
「深刻な怪我はしていないです。肩肘の手術もしていません。悪いところはないのに成績が上がらなかった。
今から思うと、練習不足だったし、準備不足だった。とにかく野球に取り組む意識が低かったんです。もろもろ良くないものがすべて当てはまったのかな、と思います」
2006年は二軍暮らし。翌春に金澤健人との交換トレードで阪神に移籍する。しかし2年間で一軍登板はなし。2008年オフには戦力外通告を受ける。トライアウトを受験したものの、獲得球団はなかった。
プロ入り9年目、27歳になっていた。