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《人間で言えば100歳》ダービー馬・ウイニングチケット(31)が過ごす幸せな余生…主戦騎手の感謝「私に、ダービーを獲らせてくれるために」
text by
高川武将Takeyuki Takagawa
photograph byJIJI PRESS
posted2022/05/25 17:01
1993年の日本ダービーを制したウイニングチケット。初制覇の柴田政人はガッツポーズ
ファンを感動させた柴田の生き様
なぜ、瞬時の判断ができたのか。
「それはね、どういう風にしてここへ来たのかということを、頭の中できちんとイメージしてないとできないの。自分の馬の脚質、事前のプラン、実際のレースの流れを捕まえてないと、最後の追い合いで負けちゃう。自分はどう動いて、どうやってここまで来たのか? わかってないとね」
2回続けた最後のセリフは、まるで柴田の人生を表しているようにも聞こえた。
義理人情を重んじ、損な役回りを演じることの多かった男は、ついに理解者に恵まれ、その思いに応えダービーを制した。時代遅れの生き方が結実した勝利。バブルに浮足立つ世相にあって、ファンも大事なものを思い出させる柴田の生き様に自己投影し、感動が増幅したのだ。
「この私に、ダービーを獲らせてくれるために生まれてきた馬」
ただ、今でもあのレースが語り草になっているのは、その後の悲劇も相まっているのかもしれない。
栄光の日から1年も経たないうちに、柴田の騎手人生は終わりを告げる。
'94年4月24日、落馬事故。トップを走っていた馬がゴール寸前で脚を骨折、地面に叩きつけられたとき、頭を庇った左腕の神経はズタズタに切り裂かれた。必死のリハビリで復帰を目指すが握力が戻らず、「もう柴田政人の競馬はファンに見せられない」と9月6日に引退を発表。すると、それから2カ月もしない10月30日、秋の天皇賞で屈腱炎を起こしたチケットも、まるで柴田の後を追うように引退してしまう。ダービー以降は、GIを一つも勝てないままに。
「ウイニングチケットは、この私に、ダービーを獲らせてくれるために生まれてきた馬だったような気がします」
チケットの引退式で、柴田は最大級の賛辞を贈った。
調教師となった柴田の本音
あれから時代は大きく変わってしまった。調教師となった柴田は、ダービー馬を出す夢どころか、重賞を勝つことも叶わなかった。ブームは去り、売り上げは半減。目先の結果が重視されたことによって、レースに出す馬の回転の速さが求められ、育成場などの設備の整った大手にいい馬が集中し、個人馬主は衰退する一方になった。
「調教師とは一体、何ぞや?」
そう自問自答する日々だったという。
「昔は、調教師と騎手が話し合い、時間をかけて馬を育てていったけど、今はそうじゃなくなってしまった。馬主と騎手が直接やりとりするようになったんですよ。調教師は技術者じゃなきゃいけないのに、ただの経営者だ。でも、大手に集中して、同じ勝負服の馬ばかりが勝っていたら、ファンはつまらないよ。個人馬主も楽しめるシステムに変えてほしいよね。まあ、俺ももう少し自己アピールできればよかったんだけど、そういうのは下手くそだから」
そう言って、自嘲気味に笑った。やめようと思ったこともあったという。同じ歳の盟友、高松邦雄は既に10年前に厩舎経営から手を引いている。人との繋がりを大事にし、調教師を続けてきた。なぜだったのか。
「競馬のためですよ。騎手の頃から、競馬全体を盛り上げて行く過程の中で、自分の成績も出てくると思っていた。だって、俺らは馬に育てられたと思っているから。ここまでやってこれたのも馬のお陰なんだ」