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「眼が違う」大迫傑がずっと考えていた“陸上界のこと”…Twitterでのマラソン挑戦表明も、ラストレース発言も“異質”だった

posted2021/08/18 17:02

 
「眼が違う」大迫傑がずっと考えていた“陸上界のこと”…Twitterでのマラソン挑戦表明も、ラストレース発言も“異質”だった<Number Web> photograph by Takeshi Nishimoto/AFLO

自らラストレースと位置づけた東京五輪。結果は6位入賞。大迫傑が見せてきた背中は次世代へのヒントになる

text by

小野晋太郎

小野晋太郎Shintaro Ono

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Takeshi Nishimoto/AFLO

 あの選手は「眼が違う」。

 よく先輩記者から聞いていた言葉だ。

 初めて大迫傑にインタビュー取材をして、その意味を改めて理解した。

 テレビの記者として初めて取材した陸上の選手が大迫だった。早稲田大学の合宿へ足を運び、自転車で並走して彼を追う。当時の筆者はサッカー部出身の駆け出しのADで、陸上のことなんて全く知らなかった。だが、陸上競技のことを「箱根駅伝」と答えてしまう新人記者の目にも、大迫は魅力的なアスリートに映った。

「駅伝のリスクを背負っても」

 2010年、まだ大迫は19歳だった。高校陸上界のスターとして早稲田大学に入学した彼は、進学理由をこう答えていた。

「他の大学と比べトラックで、世界で戦った選手が非常に多い。自分もその舞台で戦えるようになりたいと思ったので、早稲田大学を選びました。駅伝のリスクを背負っても、そこでやるのがいいのかなと思ったんで」

 目標はあくまで、「トラックで世界」。名門・佐久長聖高(長野県)で全国高校駅伝優勝。鳴り物入りで入学した早稲田という看板を背負いながら、「駅伝をリスク」と口にする若さがあった。

 当時から箱根駅伝ではなく、世界で戦うことだけを常に考えていた。他人の言うことよりも、自分が信じたことにまっすぐに進んでいく。大迫を語るときにいつも言われることだが、日本の学生界の中でも1人だけ異質だった。

 しかし、駅伝に興味はないと言いつつも、目の前の勝負には誰よりも全力を尽くした。

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