日本サッカー未解明問題ファイル「キリスト教と神のこと」BACK NUMBER
内田篤人や酒井高徳、パク・チソンも味わった「欧州と日本のサッカーと思想の違い」… “神との距離感”や上下関係を考える
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byTamon Matsuzono/Shigeki Yamamoto
posted2021/04/30 17:01
内田篤人やパク・チソンはアジア人として欧州の基準と向き合ってきた
それは掴みどころがなく、違いがはっきりと見えているようで不可視な部分も多い。日本サッカーにとっての「未解決問題」なのだ。レベルが違う。体格が違う。技術が違う。環境が違う。文化が違う……。
欧州クラブ在籍を経験した日本のトッププレーヤーからこんな発言が飛び出している。
「チャンピオンズリーグ決勝とJリーグの試合を見たけど、違う競技だなと思うくらい僕の中では違いがある。怒られるかな、こんなこと言ったら。歴史が違うんで、ある程度の時間が必要なんじゃないかな。たぶん差はすごくあると思う」(内田篤人)
2021年シーズンのJリーグ開幕前にもこんな発言を見聞きした。ヴィッセル神戸の酒井高徳だ。
「篤人くんも言っていたと思うんですけど、日本人選手は上手くて頭が良くて勤勉です。いわゆる『日本人が知っているサッカー』に対しては、それらの能力はすごくマッチしている(中略。本人はレベルが劣ると卑下しているのではないと断りつつ)日本のサッカー、日本のリーグ全体がやっているサッカーが、世界と比べられないイメージなんですね。そもそも世界に向かっている感覚すらないというか」
「世間とは何か」を読んで考えたこと
何が違うのか。筆者自身、あのアホみたいなゴールを決めてもう15年になるが(それでも欧州公式戦での1ゴールはサッカー人生最大の誇りだ)、その後も欧州での日々を反芻する日々だ。
幾多の「西洋論」そして「日本人論」を読み漁った。このうち、おおいなる感銘を受けたドイツ中世史専門の阿部謹也先生の『「世間」とは何か』などを"サッカー読み"して考えた定義はこうだ。
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宗教が違う。
キリスト教と儒教に基づくメンタリティが違う。
神様と繋がっている尊厳ある個人と思えているかどうかの違い。
これが「年齢による上下関係のあるなし」を生んでいる。
ここから派生してサッカーのピッチ上では「自己主張」「自己責任」「専門性」といった違いが生まれている。
だから「違う」。
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ここで言いたいのは、「個人」と「社会」という存在が日本と欧州ではそもそも大きく違うという点だ。ドイツからの帰国後、読み返して感銘を受けた書籍のひとつに「儒教とは何か」(加地伸行)という名著がある。これはアジア社会の観点から欧州との違いを示している点で重宝した。
「世間~」と合わせてより掘り下げ、こういった考えを持つに至った。