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「棋士に学歴は必要ない」vs「先生と同じでは、先生止まり」… 中学生の米長邦雄が師匠と対立、鉄拳を浴びた日

posted2021/05/04 11:01

 
「棋士に学歴は必要ない」vs「先生と同じでは、先生止まり」… 中学生の米長邦雄が師匠と対立、鉄拳を浴びた日<Number Web> photograph by Kyodo News

昭和45年ごろの米長邦雄永世棋聖

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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Kyodo News

将棋界の枠を超えて社会的にも大きな影響を及ぼした不世出の棋士・米長邦雄永世棋聖。没後10年を目前にしてその知られざる素顔を明らかにする、弟弟子による初めての本格的評伝『名人を獲る』(国書刊行会/著・田丸昇)が発売されている。師匠・佐瀬勇次名誉九段との人間臭いやり取りや“米長伝説”を転載し、ご紹介する(全2回/長嶋茂雄との交友&全裸編に続く)

 師匠の佐瀬は米長を実の息子のように可愛がった。米長は佐瀬を実の父のように慕った。そんな両者のエピソードをいくつか紹介する。

 佐瀬は将棋の指導で出かけたとき、米長を連れていくことがあった。ある冬の寒い日の帰途、佐瀬は自宅の近くの東十条駅の陸橋にさしかかると立ち止まり、大好きな歌手の東海林太郎の『国境の町』や『赤城の子守歌』を、扇子をマイク代わりにして朗々と歌い始めたのだ。米長は早く家に帰りたかったが、師匠を残しておくわけにはいかない。寒風に耐えながらじっと聴いていた。「寒稽古」とはあのことかと、後年に語ったものだ。

中学校では「スカートめくり」の常習

 米長は元気な少年だった。通学していた北区立十条中学校で、同級生に「田舎っぺ」とからかわれると、「東京っぺ」と言い返した。また、小学生時代に「子どもはどこから生まれるか、知っている?」と、女性教師にお産について聞いたりして、早熟で異性への興味が強かった。中学校では女子への「スカートめくり」が常習だった。師匠の夫人はその件で、教師に何回も呼び出されて厳重に注意された。佐瀬はそんな米長を「いたずら好きで困ったもんだ」と言いながら、暖かく見守っていた。

 米長は佐瀬宅の二階の四畳半の部屋に住み込んだ。当時は住宅難の時代で、別の部屋に間借りする人もいた。実はある時期、夫人の親類の若い女性が米長の部屋に一緒に住んだ。男女の同室となるが、一方は中学生なので心配ないと思われたのだろう。しかし、米長は複雑な気持ちで夜を過ごしていたようだ。思い余って佐瀬に「いちど突撃してみたい」と打ち明けると、佐瀬は苦笑いしていた。実際には「未遂」で終わり、その話で盛り上がる妙な関係の師弟だった。

 一九五七(昭和三十二)年七月。升田幸三九段・王将(※1)は名人を獲得し、史上初の三冠王になってタイトルを独占した。その快挙は社会的にも注目された。升田の個性的な言動と蓬髪に髭という風貌は人気を呼んだ。作家の吉川英治、志賀直哉、洋画家の梅原龍三郎など、将棋を愛好した文化人にも愛された。

(※1)一九一八(大正七)年、広島県の生まれ。一九五七(昭和三十二)年に史上初の三冠王(名人・王将・九段)になった。「新手一生」を唱え、創造的な将棋は人気を博した。一九八八年に実力制第四代名人の称号を受けた。一九九一(平成三)年死去。

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米長邦雄

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