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《松山英樹はどんなキャリアを?》小1で青木功の練習見学、中1・石川遼の衝撃、米国で丸山茂樹への敬意…「覆せた」の真意とは
posted2021/04/15 17:01
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph by
Sankei Shimbun
打っても、打っても目の前に出てくるボール。それがなんだかおもしろくて、クラブを振り続けていた。頭の片隅には、そんな記憶が原風景として曖昧に残っている。
松山英樹がゴルフを始めたのは4歳のときだった。数々のプロゴルファーの多分に漏れず、家族の手ほどきを受けた。社会人時代に日本アマチュア選手権に出場したほどの腕前を持つ父・幹男さんからは、シャフトを切った大人用のアイアンを最初に譲り受けた。
競技に出始めた小学校入学以前は、「練習場に連れて行ってもらったことは多くはなかったんです。だから、いつも素振りばかり」。そんな少年時代は一方、ゴルフを介した父子の歩みの中で一流選手に触れる機会にも恵まれていた。
小学1年生の頃、球拾いをする代わりに練習をさせてもらっていた地元愛媛の奥道後GCは、かつて青木功が合宿していたゴルフ場。その様子をこっそり見に行った松山たちに気づいた青木は「おいで、おいで」と手招きして、目の前で練習を見せてくれた。
中嶋常幸が言った「これからだ」
そのおよそ2年後には、父が出場したメーカーのプロアマ大会に付いて行った際、練習場で中嶋常幸の姿を見た。
「霧がかかっていて、上空がほとんど見えない練習場。中嶋さんは50ydくらいのロブショットを最後に3球打ったんです。ぜんぶ同じところに落ちたのを見てびっくりした」
40代半ばだった中嶋は当時、勝利から5年ほど遠ざかっていた時期だった。幹男さんが愛息に「中嶋さん、昔はすごかったんだぞ」とかけた声は、本人の耳にも届いてしまったらしい。「これからだ」と返された記憶が松山には残っている。実際、中嶋はその後2002年に2勝、06年に1勝をマーク。言葉は本物だったことになる。
松山はもちろん、若かりしタイガー・ウッズに憧れた世代。10歳だった2002年に、父に連れて行ってもらった宮崎での日本ツアー・ダンロップフェニックスでは、ウッズもさることながら、尾崎将司の姿も目に焼き付けていた。
「9番ホールで親父の肩車に乗って見ました」
日本のゴルフの象徴的存在であるAONとの“初対面”は(ジャンボはともかく)小学生のうちに済ませていたわけだ。