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「八百長野郎!」禁句連発、レフェリーに暴行で元横綱・北尾光司が暴走… 対戦相手テンタが語っていた30年前の真実
posted2021/04/01 17:03
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
今からちょうど30年前、プロレス史に残る“事件”が起こった。
メガネスーパーが多額の資金を投入して設立したプロレス団体SWSが、1991年4月1日に開催した神戸ワールド記念ホール大会。元横綱の北尾光司が、WWE(当時WWF)のジョン・テンタ(ジ・アースクエイク)と対戦した際、不可解な“セメント暴走”を行なった挙句、レフェリーに暴行。反則負けの裁定が下されると、場外からマイクを使いテンタに向かって「八百長野郎! 八百長ばっかりやりやがって!」と禁句を連発。この暴言が原因となり、SWSをわずか5カ月で解雇となってしまったのだ。
SWSがわずか2年2カ月で崩壊する引き金にもなったと言われるこの事件。北尾はなぜ突然“暴発”し、あのリング上では何が起こっていたのか? 当事者である北尾とテンタはすでに鬼籍に入っているが、筆者が生前のテンタに行ったインタビューや、周囲のレスラーたちの証言から、北尾光司vs.ジョン・テンタ“30年目の真実”に迫ってみたい。
親方とトラブルで廃業した北尾と突如失踪したテンタ
まず、両者のそれまでの歩みを振り返ってみよう。北尾は相撲界でその類稀な素質を見込まれ、86年には第60代横綱に昇進したが、87年12月に親方とのトラブルから立浪部屋を飛び出し、廃業。スポーツ冒険家なる肩書を経て、90年2月10日に新日本プロレスの東京ドーム大会で華々しくプロレスデビュー。しかし、同年7月に今度は現場監督の長州力と衝突。その際、民族差別的な暴言を吐き、わずか半年足らずで契約を解除された。その後、同じ大相撲出身のレスラー天龍源一郎が手を差し伸べるかたちで90年11月にSWSに入団するが、北尾はこの天龍の恩を仇で返すこととなる。
一方、テンタは63年、カナダ生まれ。奇しくも北尾とは同い年だった。レスリングのカナダジュニアチャンピオンの肩書きを持ち、アメリカのルイジアナ州立大学でもレスリングで活躍後、85年に大相撲佐渡ヶ嶽部屋に入門。琴天山の四股名で、序の口、序二段、三段目と無敗の快進撃を続け、史上3人目の3場所連続優勝という記録を樹立。86年7月場所では幕下43枚目まで昇進するが、場所前に突如失踪。そのまま廃業となり、86年6月に全日本プロレスに入団した。