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【センバツ初出場】“離島の大崎高校”の奇跡 「犯罪者のような扱いでした」2度の“不適切な指導”から復活した監督 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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posted2021/03/18 18:21

【センバツ初出場】“離島の大崎高校”の奇跡 「犯罪者のような扱いでした」2度の“不適切な指導”から復活した監督<Number Web> photograph by KYODO

初出場を決め選手たちに胴上げされる大崎高校の清水監督

清水 そうです。ただ、メディアのみなさんは「離島」って言いますけど、地元の人は離島とは言いませんね。普通に「島」って言います。橋でつながっているので。こちらの人は、陸から遠く離れていて、船じゃないと渡れないような島が離島なんです。あと、大島の高校と言われますけど、じつは、大島と、その隣の島、崎戸と呼ばれる地区の学校なので、それぞれの頭文字をとって「大崎」なんです。グラウンドと学校は大島町にありますけど、野球部寮は崎戸町にある。なので大島の高校と言われるのも、ちょっと違和感があるんです。

 

 

「さすがに大崎では勝てない」を2年半でひっくり返す

――なるほど。なぜ大島高校ではないんだろうと思っていました。でも大島は日本全国にいくらでもあるので、大島高校と名付けるよりは特徴があっていいですよね。私は佐世保港から高速船で大島まで来たのですが、長崎空港から佐世保までバスで約1時間45分、そこから船で約25分。前々任校の清峰もアクセスは大変でしたが、ここも負けず劣らず大変なところにありますね。

清水 県内の関係者も、さすがに大崎では勝てないと思ったと思います。だって、勝てる要素、ないじゃないですか。ただ逆にここだからこそ、勝てたんですよ。いつもこういう言い方するんです。甲子園いくには80積まないとダメだ、と。普通は積めても1年に10ずつです。でも大崎は2年半で70まで積むことができた。70のうち40は、僕が赴任したときに入ってきてくれた選手たち。70のうち30は地域の人たちです。市が寮をつくってくれたり、病院が使わなくなったマイクロバスを寄贈してくれたり、島の方が魚や野菜を差し入れしてくれたり、こんなに協力してくれるものなのか、と。普通だったら、こんなにすぐに環境は整いません。それらの上に、今の1、2年生が10を足して甲子園に出られた。選抜出場が決まったとき、みんなの前で最初に入って来てくれた選手たちへの感謝を口にしようとしたら、言葉に詰まってしまって。僕、ぜんぜん「泣きキャラ」じゃないのに、何か言おうとすると、(涙が)あふれ出てきそうになってしまって。

――清峰のときも、立地条件は似たようなところがありましたが、そうした地域との一体感は今ほどはなかったのですか。

清水 清峰のときは町のためにやっているという意識はまったくなかったですね。応援してくれてありがとうという気持ちもなかった。自分たちが勝つことしか考えていませんでした。あれから、私も歳をとったし、痛い目に遭いましたからね。指導から遠ざかった4年半、復帰したら、今度はどうやっていこうかずっと考えていたんです。その答えとして、地域貢献だなと思った。大島や崎戸の炭鉱で働いた人たちは、閉山になったあと、全国に散り散りになってしまった。そんな方々が久々に大崎の名前が話題になって、喜んでくれているんです。それがこちらもたまらなく嬉しい。この春、甲子園のアルプススタンドが、そんな方々の同窓会の会場のようになってくれたら最高なんですけどね。

(【続きを読む】「練習中に大腿骨が折れて…」部員5人だった“離島の弱小校” 2年半で初の甲子園に導いたスゴい練習 へ)

(写真=中村計)

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