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将棋の感想戦文化がもしスポーツ界にあったら……。マリーと激闘、西岡良仁の「自戦記」を読みたい。
text by
井山夏生Natsuo Iyama
photograph byGetty Images
posted2020/09/05 11:50
全米オープンの1回戦で“ビッグ4”の1人、アンディ・マリーをぎりぎりまで追い込んだ西岡良仁。
将棋の世界の「感想戦」という文化。
将棋の世界にあってテニスの世界にないのが「感想戦」という文化だ。棋士たちは勝っても負けても自分たちの戦いをかならず振り返る。
勝ったほうはわずかな差が決定的だったことを確認するために。負けたほうはそのわずかの差は埋められなかったのか反省するために。基本は「あそこでこうしていたらどうしていました?」とポイントとなった局面の復習だが、両者が納得しなければ、その局面から別の将棋を指して、お互いの読みの深さを披露しあうこともある。
終電後に終った対局の感想戦を始発電車までおこなう、なんてことも珍しくない。そうした毎回、毎回の苦しい作業が「自戦記」につながっている。テニス選手はよく「終ったことを悔いても仕方ありませんから……」とコメントする。しかし、そういう気持ちを持っている棋士はまずいない。将棋はテニスよりも勝負に「辛い」のだ。
小学生のときから「将来の名人候補」と。
将棋の世界でプロになれるのは年間で4人だけ。前期、後期に分かれた3段リーグの上位2人だけしかプロにはなれない。日本中から神童、天才と呼ばれる子ども達が集まり、そしていとも簡単に自身の才能に絶望してしまうのが奨励会。そこを勝ち抜くには才能と努力では足りない。もっと何か他のカリスマが必要だ。
そのカリスマのひとつが将棋界で言われる「信用」ということだろう。藤井聡太2冠は小学生の頃から将来の名人候補と呼ばれていた。プロ棋士たちが小学生の力を認めていた。それが将棋界の「信用」だ。小学生のときから将来の名人候補と言われ、中学生で棋士となったのは藤井二冠の前に4人いて、その4人、加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明はいずれも名人となっている。
将棋雑誌『将棋世界』には三段リーグを勝ち上がった2人に「四段昇段の記」というページを用意する。そこで彼らが書く文章はすでに出来上がっている。下手な文章を書く若手はいない。プロに足を踏み入れたばかりの初原稿から達者だ。
彼らは自分のことだけでなく、相手のこと、周りの世界、そうした諸々のことが整理できている。そこに深く関わっているのが「感想戦」の伝統なのだ。