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若きカズの戦友はブラジルの代理人。
橋本幸一が得た海外サバイバル術。 

text by

沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byKoichi Hashimoto

posted2020/06/23 19:00

若きカズの戦友はブラジルの代理人。橋本幸一が得た海外サバイバル術。<Number Web> photograph by Koichi Hashimoto

元ブラジル代表ゼ・エリアスと写真に収まる橋本幸一氏。ブラジルの地で日本サッカーに貢献しようとしている。

リバウドら擁するコリンチャンスに。

 ところが1993年初めに右足を骨折して長期間欠場し、契約を打ち切られてしまう。サンパウロへ戻り、ナシオナルという小クラブで練習していた際、名門サンパウロFCとの練習試合に出場して3アシストを記録した。

 これがサンパウロFC関係者の目に留まり、入団テストを受けるよう誘われた。ところが、この試合をコリンチャンスと関係の深い代理人が見ており、強豪コリンチャンスに入団できることになった。

 当時のコリンチャンスには、若き日のリバウド(後にバルセロナなどで活躍し、2002年W杯で優勝)、MFマルセリーニョ・カリオカ(2002年、ガンバ大阪に在籍)、かつて幸一がU-14で一緒にプレーしたFWヴィオラ、FWカーザグランジ(1986年W杯出場)らブラジル代表の猛者が目白押し。なおGKロナウドは、1988年3月にカズが州選手権のコリンチャンス戦で初ゴールを決めたときの“被害者”だった。

 このようなスター軍団で、幸一は常にトップチームの練習に参加した。紅白戦ではたいていBチームでプレー。公式戦のために前泊するメンバーにまでは選ばれても、ベンチ入りメンバーからは除外されるのが常だった。

 1994年の2月から3月にかけて、コリンチャンスは日本へ遠征。幸一は、横浜フリューゲルスとベルマーレ平塚との試合に途中出場した。

 ただし、その後も公式戦出場の機会は訪れない。

柏に加入し、その後またブラジルへ。

 キャリアの中で最も惜しかったのは、1994年11月のブラジルリーグのフラメンゴ戦。試合前最後の紅白戦でAチームに入ったが、左膝靭帯を損傷。プレー不能となり、公式戦初出場は夢と消えた。

 この故障がなかなか癒えず、1995年初めに手術をした。これで数カ月間プレーできなくなり、コリンチャンスでの居場所がなくなった。

 この年の後半、柏レイソルに入団するが、故障が完治しない。1997年、福島FC(JFL)へ移籍するが、ここでも故障のため全くプレーできなかった。

 普通ならここで引退するはずだが、幸一は違った。「怪我さえ治れば、自分はまだやれる。どうせなら、ブラジルへ戻ってとことんまでプレーしよう」と考え、1999年、北東部の小クラブ、ジュアゼイロに入団した。

【次ページ】 ダニエウ・アウベスの兄ともプレー。

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