熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
若きカズの戦友はブラジルの代理人。
橋本幸一が得た海外サバイバル術。
posted2020/06/23 19:00
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Koichi Hashimoto
1982年末、三浦知良(カズ)は高校を1年で中退してブラジルへ渡り、下積みを経てコリチーバ、サントスなどで活躍。約7年半後に日本へ凱旋。
カズのブラジル渡航から約1年半後、やはり15歳でフットボール王国の土を踏んだ男がいる。
キンゼ・デ・ジャウー(以下、キンゼ)の下部組織でカズと苦労を分かち合い、名門コリンチャンスなどでプレー。柏レイソルなどに在籍した後、またブラジルへ舞い戻り、2002年に33歳で引退するまで地方クラブを渡り歩く、という数奇なキャリアを歩んだ。
その名は橋本幸一。1969年生まれで、カズより2歳年下だ。
小柄だが足腰が強く、テクニックがあり、敵陣を切り裂くパスを繰り出すMFだった。攻撃的MFとして、あるいはボランチとしてプレーし、自分が点を取ることよりも決定的なパスを出して得点のお膳立てをすることに喜びを見出した。
三菱養和で磨いた技でブラジル挑戦。
東京・浅草の生まれだが、父親の弟がサンパウロに移住しており、子供の頃からブラジルを身近に感じていた。ジーコに憧れ、玉川学園中等部に通いながら三菱養和SCで練習に励み、個人技を磨いた。
1983年、中学3年の夏休みに叔父を頼ってサンパウロへ渡り、コリンチャンスのU-14の練習に参加。チームには、後にブラジル代表に選ばれて1994年ワールドカップ(W杯)で優勝したCFヴィオラらがいた。
言葉は全く分からなかったが、当時について橋本は「とても楽しく過ごせて、ブラジルがすっかり好きになった」と回想する。
日本へ戻って中学を卒業。玉川学園の高等部、大学までのレールが敷かれていたが、両親に「ブラジルでプロを目指したい」と訴え、1984年4月、再びブラジルへ。
サンパウロの日系二世のフットボール関係者から「コリンチャンスのようなビッグクラブよりも地方の小さなクラブの方が落ち着いて練習ができる」と諭され、キンゼのU-15の入団テストを受けて合格する。
クラブの下部組織専用の選手寮に入ったが、言葉がわからない苦労に加え、プロリーグがなく、W杯に出場したことすらないフットボール後進国からやって来たことへの偏見とも戦った。