F1ピットストップBACK NUMBER
ホンダよ、本田宗一郎の魂を今こそ。
F1での「負け癖」を払拭するため。
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byGetty Images
posted2018/08/26 09:00
アイルトン・セナとともに駆けた1992年のマクラーレン・ホンダ。この時のような勝利への執着心を観たい。
'80年代も初めは問題だらけで。
そのホンダに今年から加わったのが、HRD Sakura担当の執行役員の浅木泰昭だった。浅木はホンダの大ヒット軽自動車である「N BOX」の開発責任者だが、じつは'80年代のF1活動に関わっていた人物で、ホンダが輝いていた時代を知る、いまのホンダでは数少ない人物だ。
しかし、浅木は'80年代もF1活動を始めた当初は、状況はいまとそんなに変わらなかったという。
「私が初めてF1の仕事をした'80年代も初めのうちは問題だらけで、まったく勝てる雰囲気はなかった。そういう光が見えないような状況でも、ずっともがきながら開発を続けていた。
レースというのは、闇の中での戦い。闇の中で、もがきながら光を手繰り寄せようという努力が人材を育てる。そういう経験が会社が厳しい状況になったときに、会社の役に立つ人間になるのだから」
光を求めた結果、N BOXが。
こうして開発されたのが、N BOXだった。
「N BOXの開発を始めたとき、ホンダが軽自動車を作ると割高になるので、安さが勝負の軽自動車の世界でホンダが戦えるはずがない、という声が少なくなかった。撤退した方がいいんじゃないかとも言われました。まさに闇だった。でも、光を求めて必死にやった」(浅木)
しかし、闇はそこに留まり続けると、やがて目が慣れて闇ではなくなり、闇にいるという自覚さえなくなってしまう。負け癖とは、そういうことなのかもしれない。
それに気づいたのが、'16年からホンダのモータースポーツ部長として、F1活動を統括している山本雅史だった。