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体重2.8kg減、ザック重量5.1kg減。
TJAR「無補給」の末に見えたもの。
text by
千葉弓子Yumiko Chiba
photograph bySho Fujimaki
posted2018/08/25 17:00
日本一過酷といわれる山岳レースTJARを走り終えてこの表情。望月将悟はその瞬間をどういう心境で迎えていたのだろうか。
はじめから最後まで幻覚と幻聴に襲われつづけた。
5日目の夜7時頃。南アルプスを無事に抜けた望月は、静岡県北部にある畑薙ダムに下りてきた。故郷である静岡市の井川地区まではあと3時間ほどの距離だ。夕闇に包まれたダム湖のそばで食事を終え、クッカーを片付けながらこういった。
「あれ、いま人の声しました?」
ダムにかかる橋の反対側で確かに人の声がしている。
「よかった。実は剱岳に入ったころから、ずっと幻覚と幻聴があったんです。切り株が顔に見えたり、石が顔に見えたり、可愛いもんですけどね。あと、人の声が聞こえたりして」
これまで、よほど疲労が溜まっていないと幻覚は見なかった。ところが今回は序盤の剱岳から、ほぼずっと幻覚と幻聴に襲われていたという。それほど荷物の重さによる肉体へのダメージが大きかったのだ。
そこで、ぽつりと漏らした望月の言葉が心に残っている。
「トップ争いしている選手のこと、さっきテレビクルーが話してました。これからは僕ではなくて、新しい優勝者に注目がいくのがいいんですよ」
あと1日で戦いが終わる静かな前夜。TJARが次の時代に向かうためには、新しい挑戦者にスポットライトが当たるべきだと望月はこれまで何度も口にしていた。その一方で、憔悴した体を横たえながら、心のうちには「これでついに勝者ではなくなる」という寂しさもあったのかもしれない。望月の心の中には何が浮かんで、何が消えていったのか。
その頃、井川では多くの住民が深夜にもかかわらず望月を待っていた。チェックポイントがあるキャンプ場には登山家の花谷泰広も応援にかけつけていた。他の利用者に配慮して声をひそめながら選手を待つ応援者たちに見守られ、望月は23時21分に到着。
管理棟の陰に腰を下ろすと、近くにいたテレビクルーに向けて「少しだけ、カメラを回すのをやめてもらえますか」と頼んだ。ギリギリだったのだ。
王者はボロボロの肉体でゴールに向かった。
北アルプス、中央アルプス、南アルプスを越えてきた選手たちには、井川からゴールの大浜海岸まで厳しいロード80kmが待っている。太陽が照りつけ、アップダウンも多い。途中、そこここで自宅から椅子を出し、望月を応援する人を見かけた。道の駅や商店にも応援の人が集まり、静岡市の中心街に近づくにつれ、その数はどんどん増えていった。
大浜海岸へと向かう安倍街道沿いには、望月の職場である千代田消防署しずはた出張所がある。激励のメッセージが書かれた横断幕が掲げられていた。しかし、ここを通過するとき、もう足は絶望的に動かなくなっていた。
「体が限界に達していて、このままいったらゴール前につぶれてしまうんじゃないかという危機感がありました。待っていてくれた仲間に、ちゃんと挨拶できなくて申し訳なかった」
あと少しだ。沿道のすべての声援に応えながら、一歩ずつ体を前へと運んでいく。過去最多のギャラリーが集まったゴールの大浜海岸。望月は、ゆっくりと砂を踏みしめ、訪れた人たちがつくりだした花道を通って、白いゴールゲートをくぐった。6日と16時間07分。
そして、いつになく饒舌に話し始めた。
「(TJARは)最後なんです。もう、決めていて。すべて今回、出し尽くすつもりでやりました」
望月の突然の告白に、一瞬、どよめきが起こる。しかしすぐに「ありがとう」の言葉とともに、より一層大きな拍手がわき起こった。