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今も助っ人外国人を悩ませる問題に、
1985年のバースはどう対応したのか? 

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鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

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photograph bySports Graphic Number

posted2015/09/17 10:45

今も助っ人外国人を悩ませる問題に、1985年のバースはどう対応したのか?<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

バース氏が阪神で活躍した背景には、流し打ちの体得など、日本球界に順応する努力があった。

「日本球界のファミリーになっていった」

――バースさんもそういう経験をしたということですか?

「1年目とか2年目はワイドだったね。でも、'85年に打ち出してからはだんだんとストライクゾーンがコンパクトになっていった。それと'86年くらいからは審判とも仲良くなったしね。あるときこんなことがあってね。ホームランを打つと人形をもらえるだろ。ある審判が『きょう打ったら人形をくれないか』と言ってきたんだ。確か北九州の試合だったと思うけど、私は『OK!』と言って、その試合でホームランを打ったんだ。試合後に約束通りに人形をあげたら、それからどこに行っても『今度は僕にください』と頼まれるようになったわけさ。そんなこともあったね(笑)。でも、そうやって審判の人たちともコミュニケーションをとっていくうちに、私は日本球界のファミリーになっていったんだと思う」

――その後は大きなトラブルもなくなりましたか?

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「'86年にはストライクゾーンが変わって、低めのボールを取るようになったから、審判にとっても難しいシーズンだったと思う。審判だって人間だから間違いはある。でも私は決して判定には文句を言わなかった。微妙なときは『ストライク?……』って驚いた顔をするだけだよ(笑)。お互いに尊敬の念がなければいい関係は築けないから。日本だけでなくメジャーでも成功するためには、その点は同じだと思うね」

5万人の阪神ファンが毎試合駆けつけてくてた。

――そうしてある意味、審判をも味方につけた結果が、2年連続三冠王でありシーズン最高打率であり、そういう記録につながっていったということですね。

「阪神ファンもファミリーだったしね。とにかく甲子園球場でみんながトランペットに合わせて歌いながら、メガホンを鳴らして応援してくれるのはエキサイティングだった。特にすごいのは'83年や'84年は成績もひどかったのに(ともに4位)、それでも阪神ファンは毎試合、毎試合、甲子園球場にやってきては応援してくれていたんだ。5万人のファンが毎日駆けつけてくれるんだからね。すごいことだよ。だから'85年の優勝の喜びは、ファンのみんなに一番味わって欲しかった。それを実現できたことが、何よりも自分の中の誇りでもあると思っているんだ」

【次ページ】 「ここに居場所を見つけた」

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