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長谷部から清武に継承される主将像。
代表、そして同じクラブで学んだこと。 

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ミムラユウスケ

ミムラユウスケYusuke Mimura

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posted2014/07/04 11:20

長谷部から清武に継承される主将像。代表、そして同じクラブで学んだこと。<Number Web> photograph by Getty Images

コロンビア戦後の長谷部誠は、あふれる感情を必死で抑えているようだった。翌日の会見、「責任は選手にある」と指揮官をかばった。

「若手がキャプテンをやるべきと、ずっと思っていた」

 長谷部がザッケローニ監督の元を訪れたのは、2012年の10月、フランスやブラジルと対戦したヨーロッパ遠征のときだった。当時の長谷部は所属していたヴォルフスブルクで、指揮を執っていたマガト監督のもとで構想外となっており、ベンチ入りすらままならない時期だった。

 あの遠征が終わってから2週間もたたないうちに、ヴォルフスブルクがマガト監督を解任したことで、長谷部は再び所属チームで試合に出られるようになった。ただザッケローニ監督にキャプテンマークを返上することも考えていると話にいったのは、長谷部の中で自信が揺らいでいたことも理由の一つだった。

 そして、そこにはもう一つ理由があった。長谷部はこうも語っている。

「若い選手がキャプテンをやるべきだというのはずっと思っていた。僕がそれをサポートすることは出来たし、もちろん、これからの日本代表では若い世代がもっともっと出てこなければいけないと思う。自分なんか押しのけてもらわないと困るというかね。そうなっていかないと世界では勝てないと思う。もちろん、僕も負ける気はないんですけど……」

「自分たちのサッカー」のズレと同時に挙げられる“敗因”。

 ブラジルW杯で日本代表が1分2敗に終わったのにはいくつかの原因がある。

 ザッケローニ監督と選手たちが話す「自分たちのサッカー」の内容を丁寧に追っていくと、その内容が微妙にずれていたことに気がつく。W杯で勝つために「自分たちのサッカー」をするしかないという想いを抱えている選手と、「自分たちのサッカー」をする前に試合に勝たなければいけないという想いを抱えている選手。その両方がいたことも敗因の一つに挙げられるだろう。

 そして、長谷部が危惧していたように、若い選手たちの台頭が間に合わなかったことも原因の一つだ。ブラジルW杯を目指すチームの基礎が出来上がった2011年1月のアジアカップを戦ったメンバーに加えて、最終的には山口蛍と大迫勇也がW杯ではレギュラー格として台頭したが、それは大会直前になってからのこと。彼らがチームとしての戦いを模索する中で積極的に意見をしたり関与するまでには、時間も、彼らの経験も足りなかった。

 ただ、ブラジルW杯を戦った日本代表が得た、決して多くないとはいえ貴重な財産に目をむけてみると、違ったものが浮かび上がってくる。

【次ページ】 ベンチ組も、ピッチ内の選手とともに戦っていた。

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