自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
神田川に沿って“東京横断旅行”。
フォークソングの銭湯は、今も健在か?
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2010/05/14 06:00
高田馬場の覇権はどこに?
高田馬場の直前、神田川の河畔に「東京富士大学」という大学があった。神田川沿いすぐに建つ、その佇まいに、なぜか異様な迫力がある。
東京にあるのか富士にあるのかワカラン不思議な大学名ではある。
私など「だったら『富士大学』にすればいいのに、そっちの方がシンプルで格好いいのに」なんて思ってたら、富士大学はすでにあるのだそうだ。岩手県の経済系単科大学。
うーん、いい名前、先にとられちゃったのね。私が思うに日本には「名付けの法則」みたいなものがあって、一番最初の会社や学校(など)は「日本○○」を名乗る。2番手の会社は「東京○○」を名乗る。で、3番目が「富士○○」を名乗る、というものだ。テレビ局などがその典型。
東京富士大学は、全部とられた末に、2と3のミックス型というアグレッシブな形に出たのかもしれない。こちらも経済系の単科大学だ。で、その迫力ある校舎の先に「さかえ通り商店街」の裏口(駅前と逆ということです)があった。
さかえ通りといえば、私などがすぐに想起するのは、早慶戦の後に、早稲田の学生たちがべろべろに泥酔して、都の西北だのを歌い、ガナり、踊り、嘔吐するという、いささか酸っぱい香りの充満したウルサイ通りというイメージだ。
ところが、そのさかえ通りを自転車で駅側に行くと、うわ、違う。もはやここは早大生たちだけのものじゃない。「さかえ通り」の看板の下に、青地に白で「東京富士大学」と大書してある。そうか、さかえ通りの覇権はすでに、早稲田から東京富士に移ってしまったということか。何だかすごいな。恐るべし、東京富士大学。
名曲の舞台、銭湯「安兵衛湯」はいずこ。
高田馬場を抜けて、面影橋、早稲田へ。
お待たせしました。実は神田川のモデルとなったのは、まさにこの地域だ。「二人で行った横丁の風呂屋」も、かつてこの界隈、西早稲田三丁目にあって、その名を「安兵衛湯」といった。
これは私の友人の銭湯博士・町田忍氏が、神田川を作詞した喜多条忠氏に直接聞いたものだから、まあほぼ間違いない。珍しい名前の銭湯だが、これは高田馬場仇討ちの堀部安兵衛にちなんで付けられたもの。高田馬場らしい名前なのだ。
今、行ってみると、銭湯はとうの昔に影も形もなく、そこには低層の単身者向けマンションが建っているばかりだ。
ちなみに歌の当時、神田川は、汚水が流れて悪臭が漂う、東京下層社会(?)の象徴的な川だったそうで、あまつさえ雨が降ると、このあたりの洪水の元凶ともなっていたそうだ。
今とはかなり違う。
ここまで走ってきて思うのだけど、神田川沿いは、もはや「高級住宅地」ばかりだよ。久我山や永福だけじゃなく、もちろんこの高田馬場も含めてね。
ここまで来ると、神田川も太くなってくる。「都心の運河」という風情。でも、もちろん浅すぎて、船は通れない。つまり、まだ、運河たり得ない。
ふと見ると、川の上を、おお、味わい深い。船の代わりにチンチン電車が通っていく。
東京に最後に残った路面電車「都営荒川線」は、東京の北東部、三ノ輪橋を出発して、荒川区、北区、豊島区などを通り、東京北部を半周して、最後にここ早稲田にたどり着くわけだ。