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最終回 特別対談・小野喬×岸本健 「日本スポーツ界を革新するために東京五輪を!」 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/09/25 11:30

最終回 特別対談・小野喬×岸本健 「日本スポーツ界を革新するために東京五輪を!」<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

夕方5時まで働き、深夜まで練習するのが当然だった。

岸本 小野さんについてもう一つ印象に残っているのが、大会前、仕事の後に夜遅くまで練習していた姿です。

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33歳のベテランとして参加していた小野喬は、会場で痛み止めを注射しなければならないほど腕の故障が悪化した状態で競技に臨んでいた

小野 私は大学卒業後、東レに入社したんです。最初の1年は研修ということで、滋賀工場勤務でした。当時の社長の理解もあって体操の器具を購入していただいたのですが、「このままの環境ではオリンピックは厳しい」と社長さんが配慮してくれて、1年で東京勤務にしてもらえたんです。夕方の5時に仕事が終わって職場を出ると、練習環境のあったYMCAや、母校の体育館で夜9~10時頃まで練習していましたね。何も食べないのもよくないし、といってきちんと食べると体が重く感じるので、コッペパンを半分かじってから練習をしていました。ただ、日本代表に選出されたあとは、合宿も多かったですから練習の状況は大分変わりましたけどね。

岸本 現在の選手のように、仕事を途中で切り上げて午後から練習ができるというような環境はなかったですからね。普通に勤務してそのあと練習、が当然の時代でしたね。

厳格なアマ規定に縛られ、金銭面の苦労も耐えなかった。

──指導に付きそうコーチや監督はどうされていたんですか?

小野 そんな人はいませんよ(笑)。自分で海外の選手の技を研究して、新しい技を開発したり、選手同士でチェックしあったりです。そもそもコーチを雇うようなお金もありませんから(笑)。今の選手のように収入を得る道もありませんでしたしね。

岸本 当時はアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの区別が、今では想像がつかないほど厳格だったんですよね。

小野 例えばプロ野球の選手とちょっと口をきくだけでも違反とされていました。それだけでアマチュア規則違反になって大会に出場できなくなるんです。王貞治さん、長嶋茂雄さんたちのように、陰ながら差し入れなどで協力していただいた方はいるのですが、お礼を言いたくても会うことも喋ることもできなかった。心苦しかったですね、実際。

岸本 当時は雑誌に出ることも駄目だったんですよね(笑)。

小野 今だからこそ、こうしていろんなメディアの方とお話できるんです(笑)。

──そのように厳格なアマチュアリズムのあった時代、海外遠征などの費用も今日とは事情は違ったのでしょうか。

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体操団体の表彰式。表彰台に立った小野喬は1952年のヘルシンキから4大会連続でオリンピックに出場し、日本選手史上最多の13個のメダルを獲得した名選手

小野 強化費として競技団体から出ることもありませんでしたから。出身の県や市に頭を下げてまわりったり。あるいはこんなこともしました。学校に行って子供たちの前で演技を見せ、10円でも100円でもカンパをもらうのですよ。そのカンパを世界選手権などの遠征費に充てて出場していたんです。親に経済面で世話になって頭の上がらない選手も多かったのではないでしょうか。

岸本 織田(幹雄。陸上三段跳金メダリスト)先生も言っておられましたね。サイン会とかやって、いくらかでもお金をいただく。そうでもしなければ、遠征になど行けはしなかった、と。

──仕事と練習をしっかり両立させ、遠征ともなれば苦労して資金を作る。その中でも、結果を期待される。東京大会でのモチベーションはどのようなものだったのですか。

小野 メダルを獲ることで、これまでスポーツができるように支えてくれたことを感謝し、その思いを国民の皆さんに還元したい……そんな気持ちだけでした。お金を稼ぐとかは一切考えることはありませんでしたね。

【次ページ】 メダル至上主義を捨て、スポーツ文化の向上を。

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