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『ふたつの東京五輪』 第8回 「日本の威信をかけた戦い(3)」
text by

松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2009/08/27 11:30

「美女アスリート」の元祖は東京五輪にあり。
メダルを狙える競技や選手に注目が集まるのは当然のことでしたが、メダルうんぬんとは別に注目を集める選手もいました。その代表といえるのが、飯島選手と同じ陸上の80mハードル、依田郁子選手と、水泳の木原光知子選手です。
その愛くるしい笑顔で“ミミ”と呼ばれて一躍人気選手となった木原光知子
依田選手は、ちょっとかわったことをすることで、有名になっていました。スタート前に逆立ちをすることと、「サロメチール」という鎮痛剤をこめかみあたりに塗って走ることです。かわっているといえばかわっていましたが、きっと集中するために必要な行為だったのだと思います。
メドレーリレーや背泳ぎなどで出場した木原選手は、東京オリンピックのとき、高校生でした。とても愛くるしい笑顔が印象的で、アイドル的といっていい人気を誇りました。最近のスポーツでも、「美女アスリート」が話題になることがありますが、その走りといえる選手かもしれません。いつの時代も、そういった要素は見ている側をひきつけるのかもしれませんね。
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木原選手は水泳から引退すると、テレビや映画にも出演するなど、タレントとしても活躍しました。女優の吉永小百合さんとも仲がよかったのを覚えています。
注目度ゼロ。東京五輪の最低人気はサッカーだった。
サッカーは……こう言っては失礼かもしれませんが、いちばん不人気な競技だったのではないでしょうか(笑)。今日からすれば考えられないかもしれませんが、プロチームは当然存在せず、日本リーグもなかった当時の状況ではいたしかたないことだったかもしれません。
だからこそ、オリンピックへの意気込みも強かったのではないかと思います。西ドイツから招いたデットマール・クラマーコーチの指導のもと、4年後のメキシコ・オリンピックの銅メダルで彼らの努力は実ることになります。
オリンピックとは超人が集う場所である。
駆け足で日本選手たちについてお話してきましたが、振り返ってみてあらためて思うのは、オリンピックというのは超人たちがそろっている場所なのだなあということです。試合で見せるプレーももちろんですが、オリンピックへ向けての日本の選手たちの日々の取り組みを見ても、しばしばそう感じさせられました。
そんな彼らのプレーを見ているだけでも緊張がありましたし、プレーを目の当たりにしての感動も大きなものでした。そして、前回の繰り返しにもなりますが、スポーツから、努力することの大切さを教えられたように思います。
もちろん、日本選手ばかりではありません。海外各国からやってきた超人たちの活躍にも驚かされることになりました。
それは次回のお話となります。

岸本 健きしもと けん
1938年北海道生まれ。'57年からカメラマンとしての活動を始める。'65年株式会社フォート・キシモト設立。東京五輪から北京五輪まで全23大会を取材し、世界最大の五輪写真ライブラリを蔵する。サッカーW杯でも'70年メキシコ大会から'06年ドイツ大会まで10大会連続取材。国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟などの公式記録写真も担当。
【フォート・キシモト公式サイト】 http://www.kishimoto.com/
