巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER
野村克也も苦言「誰のおかげで野球ができているんだ!」巨人・落合博満の“ワガママ”に球界大物がキレた…“名球会拒否”事件とは何だったのか?
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byベースボール・マガジン社
posted2024/02/25 11:06
1995年4月15日、巨人・落合博満(41歳)の2000本安打達成会見。名球会入りを“拒否”することを表明
落合の本音「名球会は選手生命の終わり」
名球会会員でロッテ時代の恩師・稲尾和久氏が和歌山県・太地町の記念館を訪ね、信子夫人に「ここで名球会野球教室もできるし、展示物も助けてあげられる」と口にしたことで、名球会で記念館を乗っ取ろうとしていると不信感を抱いたという。これまでFA宣言や記念館設立で、ことあるごとにマスコミを通して自分たちに否定的な意見ばかりしていたOBたちを信頼しろといっても無理な話だった。そんな中、落合本人は入会固辞の理由をこう語っている。
「理由はいろいろあるけれど、ひとつは2000本という数字の区切りにそんなにこだわりがないということだよ。2000本を達成したのがオレが初めてだとか、2000本を機に野球をやめるとかいうのであれば、名球会にしがみついたと思う。でも、オレはまだまだ野球を続けるんだからね。だとしたら、オレにとって2000本はひとつの通過点にすぎないんだよ」(週刊ポスト1995年6月23日号)
過去に達成者の多い記録より、自分しかいない三度の三冠王の方に誇りを持っていた。もちろん現役選手である以上、オフは名球会のイベント参加よりも休養を優先させたい事情もあった。実はこの9年前、2年連続三冠王に輝いた1986年に出版した自著の中でも、落合は名球会について、こんな本音を綴っている。
「名球会というのがあるが、あれに入ったらいよいよ選手生命が終わりのときですよ、と宣告された気がしてなにかもの悲しい気がする。浩二(山本・広島)さんも二千本安打を打ったとき、やっぱりちょっと気が抜けた、と言っていたが、周りが騒ぎすぎて、名球会を選手の墓場扱いするのは考えものだ。それでなくても、人間は、『これでもういいんだ』と欲を失ったときから力が落ちてくるから怖い」(なんと言われようとオレ流さ/落合博満/講談社)
「媚びない男」
記録達成の夜は、家族と親しい知人と焼き肉屋でささやかな祝杯をあげた。決して嬉しくないわけではない。それでも、「あと5年は現役を続ける」と公言する男にとっては、ひとつの通過点だった。ここがゴールではない。それだけのことだ。だが、この名球会辞退の騒動以降、球界重鎮たちからの落合への風当たりはさらに強さを増したのも事実だ。なぜなら、彼らが目指し、なによりも誇りとする2000安打を「その先がある」と一瞬で通り抜けていったのだから。
いわば、落合は名球会にも巨人にも、媚びなかった。群れるのではなく、個人で群れと対峙することで孤独と反発心を己のガソリンにしたのだ。組織の中でそういう生き方は、緊張感を生み、ときに敵を作る。球団OBたちから「なんであんな年寄りを獲るんだ」とすら批判された男が、40代にして涼しい顔で打率3割を打ってみせる。どうだ、あんたら見たか――と。
巨人軍でオレ流を貫き通すことは、戦いだった。1995年の落合博満は、その戦いの渦中にいた。
<前編《拒否事件の予兆》編から続く> ※次回掲載は3月10日(日)予定です(月2回連載)。