巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER
「落合も怒っています!」40歳落合博満もケンカに「危険すぎるデッドボール」→大乱闘で“指2本骨折&3人退場”…野村ヤクルトvs長嶋巨人、伝説の夜
posted2023/11/26 11:03
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第8回(前編・後編)、巨人1年目落合博満40歳の体は死球によって、ますますボロボロになる。そして野村ヤクルトとの“大乱闘の夜”を迎える。【連載第8回の前編/後編も公開中】
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死球、死球…40歳落合博満の体はボロボロだった
「オレがつぶれたら2人の人間がダメになってしまう。130試合出るつもりじゃなくて、出るんだ。そういう気構えじゃないと、気持ちが切れるから」(週刊ベースボール1994年5月30日号)
1994年5月7日の中日戦(東京ドーム)、6号ソロアーチを放ち、リーグ単独トップの21打点目を記録した落合博満は、チームがサヨナラ勝ちを飾った直後、報道陣の前でそうポツリと口にした。普段は「調子が上がってきたって? ごまかしだよ」なんてうそぶく男が漏らした本音。ここで言う、“2人の人間”とは、自身と長嶋茂雄監督のことである。
4月下旬に死球を受けた背中に近い左わき腹の痛みは長引き、この日も中日の小島弘務から右肩にぶつけられていた。ボロボロの体で満足にバットを振れる状態ではなかった。しかし憧れの長嶋監督から、「お前の生き様を、ウチの若い選手に見せてやってくれ」と口説かれて巨人入団を決めた落合は、四番打者としての全試合出場を自らに課していたのだ。
「四番というのは、すべてに責任を負う打者ということだ。エースと四番というのは、そこが他の選手とは違うところなんだよ。(中略)巨人の四番というのはな、オレのイメージではやっぱり全日本の四番なんだ。日本中の野球をやってるヤツが集まって、ベストのチームを作ったときに、その四番に座るのが巨人の四番なんだよ。長嶋さんが、監督がそうだったじゃないか」(週刊ベースボール1994年5月30日号)
信子夫人「休んだら、またぶつけられるよ」
その己の仕事に対する強烈なこだわりの一方で、自著『激闘と挑戦』では「どこのチームの四番であっても、四番は四番なんだよ。もし、ロッテや中日で四番を打っていた時と今とで意識の違いがあったとしたら、オレは今ごろこういう地位にはついてないよ」とクールに書くオレ流の二面性。照れ屋であり、ときに自信家。リアリストであり、ときにロマンチスト。冷静と情熱の狭間に、選手・落合は存在した。
ただひとつ確かだったのは、結果的にFAでの巨人移籍時にあれだけ球団OBたちから批判された落合が、皮肉にもその「巨人の四番」という消えかけた伝統を守ろうとしていた事実である。大量リードの試合で、長嶋監督から途中交代を勧められても「監督、まだ早いですよ。ゲームはまだわかりませんよ」と断り、グラウンドに立ち続ける背番号60。「週刊文春」の人気コーナー「阿川佐和子のこの人に会いたい」のゲストに呼ばれた信子夫人は、そんな夫の心境をこう代弁している。