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「アメリカでスポーツライターになる」“仕事からの逃避”で英語を学び始めた若者はいかにしてステファン・カリー、デビッド・オルティーズを取材するに至ったか《生島淳氏の軌跡》
日本テレビが1987年に箱根駅伝の中継を始める前、その時間帯にどんな番組が放送されていたのか、記憶している人はもう少ないだろう。'70年代はカレッジフットボールのローズボウルを中継していた。
これが私にとって「アメリカの窓」になり、現在のスポーツライターへの道へとつながる。ミシガン、オハイオ・ステイト、USCにUCLA。どの大学も、なんだか眩しかった。あ、でも、紺黄のミシガンのヘルメットがいちばんカッコよかったかな。
さらに'70年代は大リーグ中継が始まった時期で、'75年のレッズ対レッドソックスのワールドシリーズが宮城の田舎でも流れ、'77年のヤンキース対ドジャースがNHKで、そして'78年からはフジテレビが週に2度、大リーグ中継を始めた。
いつかアメリカのスタジアムで見たいな。そう思った。振り返れば、この時の体験が自分の人生を決定づけたのだから恐ろしい。ただし、アメリカへの憧れが即座に英語の習得や留学につながるわけではない。'90年に新卒で就職した時にTOEICのテストがあったが、525点だか、545点だった。どうやら、平均点付近だったらしい。

私が英語の習得に励むようになったのは、仕事からの逃避だった。会社での仕事に情熱が持てず、このままでは沈んでしまうという恐怖を感じた。そこで思いついたのが「アメリカでスポーツライターになる」という突拍子もないアイデアだった。
文化の「香り」がしたアメリカのスポーツ記事
それから、神保町の三省堂、タトル商会や銀座のイエナといった洋書店に行って雑誌を買い、興味ある記事を読み漁った。これで読解力は上がったのだろう。アメリカのスポーツライティングからは、文化の「香り」がした。表現が豊かで、日本では見られないようなユーモアもある。
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