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「松井くんは真正面から、僕は背中から長嶋さんを…」原辰徳が背負った巨人の“四番サード”という宿痾「周りは敵のほうが多かった」《長嶋茂雄二世の苦悩とは?》

2025/07/25
1995年シーズンで引退した原と抱き合う長嶋監督
幼少期から憧れ、ようやく至った“聖域”。だがそれを時代が認めない。比較され、そして批判にさらされる苦難を経て、若大将が感じた使命とその特別さを語った。(原題:[長嶋二世への道]原辰徳「四番サードという宿痾」)

 瞼の奥に深く刻み込まれた光景がある。

 1975年の3月。東海大相模高校の2年生だった原辰徳は、春のセンバツ大会に出場するために兵庫・芦屋にある竹園旅館(現ホテル竹園芦屋)に宿泊していた。その竹園旅館は巨人の大阪遠征の定宿で、ちょうどオープン戦で大阪を訪れていた巨人監督の長嶋茂雄をそこで見たのである。

「練習に行くために玄関に出ていくと、親父さん(東海大相模・原貢監督)と長嶋さんが話をしていたんです。もちろん僕らは挨拶なんてできない。ただ遠目に見ていただけ。それでも『あ~、長嶋さんだ!』って、そりゃあもう興奮したのを覚えている。だって小学生の時に初めて作ってもらったユニフォームの背番号は『3』。初めて守ったポジションは三塁。長嶋さんに憧れて、僕の野球は始まった。僕にとって長嶋さんは野球を始めた源のような人だったからね」

 遠目に見ても長嶋は独特なオーラを発して輝いて見えた。現役を退き監督となっても思い描いた通りの原のヒーローだった。

「いずれは巨人に入ってあの人の下でプレーする」――その決意を改めて強く意識した瞬間だったという。

長嶋とのちょっとチグハグな対談

 しかし運命は一筋縄ではいかない。

 高校3年生になった'76年のドラフトで長嶋監督の巨人は投手の1位指名を決めたため、原はプロ入りを断念して東海大学に進学。4年生となった'80年のドラフト直前に、今度は長嶋が成績不振から監督を“解任”されて巨人を去っていた。ドラフトで4球団競合の末、新監督の藤田元司がくじを引き当て、原は巨人入りが決まった。

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photograph by SANKEI SHIMBUN

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