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「野村さんの根底は人情なんですよ」野村克也が南海時代に育てた“知略の蕾”とド根性伝説…江本孟紀らが証言「肉離れでも、自転車のチューブを足に巻いて…」
「知将」と呼ばれた野村克也がプロ野球人生で初めて監督に就いたのは1970年のことである。その2年前まで8年連続でパ・リーグの本塁打王に君臨。不動の正捕手として南海ホークスの攻守の要だったが、34歳の若さでプレーイングマネジャーを引き受けたことで一人三役を担った。前年に球団初のリーグ最下位に沈んだチームの再建を託されると新たなスローガンを掲げる。
シンキング・ベースボール――。
南海でバッテリーを組み、教え子でもあった江本孟紀が野村の意図を明かす。
「10の力があるヤツに7の力しかないヤツが戦っても力だけでは負ける。でも残りの3を見つけてくれば五分で戦える。『考える野球』によって、3を埋められる」
実は野村は最初に監督就任を打診されたとき、重荷だとして断った。球団に説得されると条件をつけた。3年間、同僚だったドン・ブレイザーのヘッドコーチ起用だ。江本は「野村さんは川上さんを目指そうとしたのではないでしょうか」と推察する。
南海で23年間、監督を務めた鶴岡一人は精神的なものを重んじていた。野村はそれよりも'65年からV9の真っただ中だった巨人の川上哲治監督に惹かれたという。川上の傍らには組織野球の端緒である「ドジャースの戦法」を唱える牧野茂コーチがいた。野村は参謀が肝だと考えたに違いない。
新生南海の「考える野球」における司令塔になったのはブレイザーだった。かつてのメジャーリーガーは戦術に精通し、投手のクセ盗みの名人でもあった。兼任監督の野村はふたりの試合中の役割を分担した。
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