実績抜群の選手が集い、早大に黄金期をもたらすはずが、同学年に“山の神”が現れ、頂点への道は険しくなった。13年が経った今、苦難の末に辿り着いた優勝を振り返る。
「俺らの代で早稲田を強くしよう」
高校卒業後の進路を考えていた八木勇樹は、先に早大進学を決めた三田裕介からこんな連絡をもらった。三田とは高1の頃から試合や合宿で一緒になることが多く、仲が良かった。中学時代から兵庫県内で八木とライバル関係にあった中山卓也も、早大への進学が決まっていた。
その夏のインターハイ5000mでは日本人1位が八木、2位が三田、3位が中山だった。さらに国体7位入賞の矢澤曜も入学するという。北京五輪出場の竹澤健介を擁し、2008年の第84回大会で総合2位だった早大に黄金期が訪れる――誰もがそう思っただろう。八木が入学時を振り返る。
「大学でも5000mをやりたいと思っていましたが、早稲田に入ったからには箱根を走るものだと思っていました」
八木を誘った三田は、3学年上の竹澤に憧れて早大に入った。高1の時には大会で見かけた竹澤を直撃し、「三田と申します。どうしたら早稲田に入れますか?」と質問をぶつけたこともある。竹澤のように世界大会に出たいという思いが大きかったが、箱根駅伝とも真剣に向き合った。
「僕も八木も中山も、一番を目指すことが自然と身に付いています。僕らが力を発揮すれば優勝に手が届くと思っていました」
1年時の第85回大会で4区を任された三田は3区・竹澤から2位で襷を受けると、区間新記録の快走で先頭に躍り出た。
「これは行った! と思ったんですけどね」
まさか直後の5区で同学年に“山の神”が誕生するとは夢にも思わなかった。東洋大学の1年生・柏原竜二に5分差を引っくり返され、早大は総合2位に終わった。
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photograph by Shigeki Yamamoto