盤上に人生の全てを捧げ、4期死守した王座の地位。奪取に現れたのは棋道を追究するパートナーであり、畏敬する最強の相手だった。死闘を終えた深夜ごとに、電話で心の内を聞き続けた記者が「声の記憶」を辿る。
将棋に関する忘れられない音の記憶がある。
一つは2017年6月26日、藤井聡太がデビュー以来29連勝の新記録を達成した時のことだ。18畳ほどの東京・将棋会館「特別対局室」には約150人の報道陣が詰めかけており、わずか14歳で棋界の歴史を動かした少年の表情を捉えようと殺気立っていた。スチールカメラのシャッター音は途切れることがなく、寄せては返す波のように対局室に響いた。その音は今でも耳に残っている。
二つ目は2023年10月11日、21歳の藤井聡太が八冠全制覇を成し遂げた王座戦第4局の大盤解説会だ。終局後、両対局者は約7倍の抽選を潜り抜けた180人のファンの前に登場した。まず勝者の藤井が感想を述べ、次に王座を失ったばかりの永瀬拓矢がマイクを握った。
「もう一局指したかったですが、ゼロから勉強して頑張りたい」と話すと、会場から熱い拍手が沸き上がった。2人が壇上から降りようとしても、皆が手を叩くのを止めない。いま、偉業を達成したばかりの藤井に送られた拍手よりも大きかった。藤井ファンの方が多かったはずの会場で、全員が永瀬の死力を尽くしたパフォーマンスに心を動かされていた。最終盤で詰みを逃した衝撃の結末。誰もが永瀬の勝利を疑っていなかった第3局に続くドラマチックな逆転劇で、最強の藤井がここまで追い込まれたのは18回のタイトル戦で初めてだ。感想戦、そして藤井の記者会見を終えた後も、永瀬への拍手は私の脳裏に響き続けていた。
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photograph by Mitsunori Kaneko