現在でもその呼称は彼にしか使われない。
誰よりも高く、遠く、長く空を駆ける姿は
世界中の人の心を離さず、視線を釘づけにした。
そのプレーは、日本バスケット界にも異次元の熱狂を与え、
不可能と言われた日本人NBAプレーヤー誕生の契機となった。
現在もJBLのリンク栃木でプレーを続ける田臥勇太の追想と共に、
多くの人が神を目撃したあの幸福な時代が、もう一度甦る――。
1990年代、世界はマイケル・ジョーダンを中心に回っていた。
ジョーダンの登場まで、バスケットボールは日本では決してメジャーな存在ではなかったが、ジョーダンのプレーにはバスケットを見たことがない人に対しても、圧倒的な説得力があった。そしてみんなこう感じたはずだ。
「人間って、こんなに飛べるんだ」と。
すでに'90年から「週刊少年ジャンプ」で連載が始まっていた井上雄彦の『スラムダンク』によってブームが芽生えつつあったが、ジョーダンのブルズが'91年に初優勝し、翌年にバルセロナオリンピックで「ドリームチーム」が結成されバスケ人気は一気に加速する。急速に普及した衛星放送でNBAファイナルが生放送され、外国のスター選手の試合をライブで追いかける環境が整ったのも追い風となった。NBAと漫画の世界が渾然一体となって「バスケバブル」が起きたのである。
田臥勇太が初めてジョーダンを見たダンクコンテストでの衝撃。
後に日本人初のNBA選手となる田臥勇太は'88年、小学校2年でバスケットを始めたが、ジョーダンと彼の人生が交錯するようになるとは、誰ひとり想像していなかった。
「ミニバスを始めたころはクラスでNBAを見てるのは僕1人で、正直浮いた感じでした。それが『スラムダンク』、そしてドリームチームで一気にバスケをやる友達が増えたんです。みんな初心者なのに、シューズは全員エア・ジョーダンでしたね(笑)」
小学生の田臥の目に、ジョーダンはNBAでも特別な存在に映った。
「最初にジョーダンを見たのは、オールスターのダンクコンテストでした。'80年代の末に、テレビ東京がオールスターとNBAファイナルを放送していたんですよ。そのコンテストでの豪快なダンクが最初です。あまりにも飛ぶので、驚いたのを覚えてます。別世界の人、みたいなイメージでした」
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