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<ユーベの闘将コンテの証言> バッジョ&デル・ピエーロ 「最後のファンタジスタ」

2010/12/02
背番号10。それはかつて、閃きや創造性に溢れた天才の象徴だった。
だが、戦術の移り変わりとともに、彼らの存在価値は失われていく。
'90年代に輝いたファンタジスタ2人を、背後で支えた闘将が追想する。

 ディエゴ・マラドーナがメキシコの地で世界を制した直後のシーズン、正確には1987年5月10日のこと。場所は8万強の観衆で埋め尽くされたサン・パオロ・スタジアム。ナポリが史上初めてのスクデット獲得を決めたフィオレンティーナ戦で、弱冠20歳のロベルト・バッジョは、「ナポリの王」と呼ばれたマラドーナの目の前で“名刺代わりの一発”を右足で決めた。壁の間を抜くFKは、鋭く曲がり落ちながら低い軌道でナポリゴールの右隅に吸い込まれていった。これが、後に「希代のファンタジスタ」と評されたバッジョのセリエA初ゴールである。

 一方のアレッサンドロ・デル・ピエーロは'87年当時、まだ13歳。その年を最後に現役から退くユベントスの10番、ミシェル・プラティニに憧れる少年だった。しかしこの時点で既に地元、イタリア北東部ベネト州の全域にその名を轟かせており、同じくベネト州出身の“バッジョ二世”と言われていた。

 16歳にしてセリエBパドバに辿り着くと、ユベントスで歴代最高のゴール数(178)を誇り、クラブの象徴とされていた時の首脳ジャンピエロ・ボニペルティ(現ユベントス名誉会長)を魅了し、'93年にユベントス入りを果たす。なお、この年、プラティニ以降のユベントスでエースの座に君臨していたバッジョは、UEFA杯を制す過程で6ゴールを記録するなど、華麗なプレーの連続で主役を演じ、12月にバロンドールを手にしていた。

サッキが実践した“10番”を真っ向から否定するサッカー。

 '93年、それは若きデル・ピエーロと世界の頂点に達していたバッジョという、希有な才能を持つふたりのファンタジスタが、揃ってユベントスのユニフォームを身に纏った運命的な年である。しかし、ふたりの共存が許されたのは'94-'95シーズンまでだった。その背景にはイタリアという国の特異なサッカー文化が、そして時代という抗えない流れがあったのである。

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photograph by Shinji Akagi/Kazuhito Yamada(KAZ Photography)

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