甲子園の風BACK NUMBER
甲子園優勝→遠征先が“高級肉”を…「どこへ行ってもキャーキャー」池田高校“最後の優勝メンバー”が明かす蔦文也、その人気の凄まじさ
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2026/08/30 11:01
1986年、春の甲子園を制した池田高校。80年代、これが同校3度目の甲子園優勝となった
「蔦さんはグラウンドにいたのですか」
「蔦さんはグラウンドにいたのですか」わたしは訊いた。
「僕らの頃は、基本的にいたと思います。下の世代がごちゃごちゃ言っているみたいな、現場から手を離している感じじゃなかったですね」森は答えた。
「森さんの体感で、九割は現場にいましたか」
ADVERTISEMENT
「僕らの頃は。唯一覚えているのは、(春の甲子園をかけた)二年秋の県大会の試合途中で講演へ行ってしまったこと。大差で勝っているのを見て『じゃあ俺行くわ』って」
九割いた、という言葉にわたしは首をひねった。
森に会う前、池田の校舎にある野球資料室で、一冊のノートを読んでいたからだ。
表紙に黒ペンで書かれた「59年」「選抜辞退」「中村主将」「新チーム宮内時代」という言葉から、八四年度の野球部のノートだったと推測される。
選手名や練習メニューといった内容に加えて、「1月の講演」というページを見つけた。そこには一月三日、四日、九日……と計一四日間は講演会に行っていたことが記されていた。
森の言うとおり蔦が九割方グラウンドにいたとすれば、近隣の市区町村、県の講演会が中心で、放課後の練習がはじまる一五時までにはグラウンドへ帰ってきていたのだろうか。
一方で森は「僕らの頃は」とも言った。他の代で現場から離れていた可能性を残す話し方だった。
毎週末遠征、すき焼き…
いずれにせよ、森がいた三年間は池田が全国屈指の強豪校であった時代だ。同級生に、のちに社会人野球・日本生命の監督を務めた梶田、プロ野球・大洋ホエールズでプレーした松村高明という二人の好投手がいた。三年時には、春の甲子園で優勝している。
「僕らの時はお金がかかってないんですよ」と森は言う。
森がいた時代、遠征費は減った。池田が有名になったことで、相手校が経費を負担する招待試合が増えたからだ。
全国の高校が池田との対戦を熱望した。毎週末の遠征は、そのほとんどが招待試合に代わった。
土曜午後に授業が終わると、その足で空港や駅へ向かった。沖縄、長野、群馬……。毎週末をホテル泊で過ごすような生活だった。

