甲子園の風BACK NUMBER
2度の特攻出撃命令「ああ、助かった」甲子園の“伝説的監督”が迎えた終戦の日…池田高校・蔦文也が旧知の編集者に語った「特攻兵士たちの最後の飛行」
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近藤雅人Masahito Kondo
photograph bySankei Shimbun
posted2026/08/29 11:04
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
後年、池田高校は試合運びがうまくいかず窮地に追い込まれると、蔦氏が「お前ら、もう勝手にやれ!」と言って、試合での采配を投げて選手たちの自主性にまかせることがよくあった。すると、不思議なことに選手たちの心が一つになり、試合を反転させるような決定打が放たれた。一時は、池田高校には「ホームランのサイン」があるとさえ噂されたこともあったほどだ。私には、あの破れかぶれの無手勝流・選手操縦術と、戦争直後の若者たちの解放感が光景として実によく似ているように思えてならない。
落下傘用の絹布とタバコが、故郷への土産だった
このとき飛んでいた飛行機9機のうち1機が送電線をこすってクルックルッと回転し、地上に落ちてしまったという。白菊は練習機なので墜落しても、めったなことでは搭乗員が死ぬことのないよう設計されていた。案の定、落ちた飛行機の下から仲間がはい出てきて地上で手を振っている。上官だった蔦氏は、川原に緊急着陸して搭乗員を助け、墜落して役立たずになった飛行機を焼いた。白菊は木製なのでよく燃えたという。その炎を見ながら、近くの畑からスイカを一つ失敬してきて喉の渇きをいやし、再びみんなで勝手きままな編隊を組んで本隊まで戻った。
蔦氏は帰隊して、1機を失ったことを上官に報告した。すると上官は怒り心頭。「貴様は任務をなんと心得ているのか!」と、顔がまるでメガネザルのようになるまで殴られたという。戦争は終わったのに、なぜ殴られなければならないのか。蔦氏はこれ以上、軍隊にいるとロクな目に遭わないと思い知った。即刻、除隊手続きをとり、故郷に帰ることに決めた。
当時、軍隊では「銀蠅」という言葉が流行っていたという。日本中が物資不足の時代だったが、軍隊には物資が豊富に保管されていた。除隊する者たちは、戦争が終わり用なしとなった物資を持ち帰ろうと、部隊の倉庫にわれ先にと銀蠅のように群がった。国敗れ、もはや秩序は失われていた。蔦氏もご多分に漏れず、故郷への土産にと落下傘用の絹布と「光」という銘柄のタバコをリュック一杯に詰め込み、余っていた飛行靴を一足手にさげて、故郷に向かった。物資が不足していた時代。蔦氏が持ち帰った土産物は近所にお裾分けされ、大いに喜ばれたという。蔦氏がまもなく22歳になろうかという頃の話である。《つづく》
近藤雅人(こんどうまさひと)
1953年、徳島県生まれ。徳島県立池田高校、早稲田大学第一文学部卒業。元ごま書房副編集長。フリーライターを3年ほど経験した後、朝日新聞社に入社。週刊朝日百科・世界の文学編集長、メディカル朝日編集長などを歴任。
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